見まごう邪馬台国

◇距離の換算

 当時、陸行や水行には一日当りに進める平均距離があり、要した日数から換算したため、上記の(B)(C)(D)項の何れもが、同距離(同日数)にされる と云う宮崎康平氏等の説には概ね同意できる。ただ、換算した日数と同数の休息日と悪天候に対する波浪、風待ちや潮待ち等の予備日を設けたので、最長で実質 移動日数の三倍程になる。また、長距離程、予備日は多く設けたと思われる。但し、陸行は歩測や基本とする縄等を使い測ったので、日程と違い、その里程は略 正確だろう。大陸内での代表的な移動手段が河川航行や馬や駱駝に拠るとすれば、風向や水流、陸行でも悪天候等にも左右されるので、短里とされる距離の曖昧 さは、そうした陸行や水行の目安に因る。*「距離の感覚」参照
 モンゴル軍騎馬隊の場合、食事や休憩等を含めた速歩で6~10時間の移動距離、70~100km/日、独仏騎兵の速歩=240m/分(115㎞/日)、 明治期、日本の騎兵も約210m/分(100㎞/日)とある。馬の速歩=約210m/分(12.6㎞/h)に関係し、6~10hで、約75~125㎞(平 均値100㎞)/日となる。おそらく、船脚も櫓漕ぎと帆掛けの和船で、最大速度10ノット、櫓を用いた実船相当の船速は4~6ノット、1ノット=一海里 (約1852m)で、7.5~11㎞/h程度で、当時、午前中の干潮と満潮を利用した6~12時間、それを生業とする海民の複数の櫂船であれば、もっと速いかもしれないが、潮待ちと風待ちや悪天候等の影響を考慮すれば、65~135㎞/日(平均値100㎞/日)程度として良く、干潮と満潮や潮流を利用した沿岸部や河川の水行でも、大凡、千余里の100㎞/日が目安にされたと考える。 詰まり、帯方郡衙から狗邪韓国迄の沿岸航海七千餘里(500~800)も、これに則して計算すると、航行日数「5~8日」、同様に、15~24日、最長で一ヶ月弱の日程になる。狗邪韓国からの渡海三千餘里は、地図上、大凡、210(90+70+50)㎞、航行3日、休息日と、潮待ち、強風波浪等、悪天候に対する予備日等の2日を併せた三日サイクルとし、最長で9~10日の日程とした。
 最後に陸行で1日に進む平均距離(㎞/日)を、資料では、唐代=50里(約28 ㎞)/日、重装備での行軍=20㎞/日、江戸期、東海道五十三次の約500㎞を15日前後、戦国期の軍団は急ぎ20日で歩いたとする。これを実際に歩いた 日数とすれば、一日、500㎞÷15=約33.33㎞、500㎞÷20=25㎞になるが、通常、4㎞/h、休憩や食事の時間を除く、5~7hで、 20~28㎞/日が妥当だろう。当時の道路事情、下賜品等を負った悪条件等を考え併せると、末盧国~邪馬壹国の陸行二千里も、移動日と同数の休息日と悪 天候や河川増水等、足止めの予備日を併せた3日サイクルの陸行一月で、実質の移動10日(予備0日)、同15日(予備5日)、同20日(予備10日)と し、原則、隔日休息で、最速で移動すれば、28×10(280)÷30=9.33㎞、28×15(420)÷30=14㎞、 28×20(560)÷30=18.66㎞、平均移動距離は、約14㎞/日となり、陸行の二千里の実質移動日を10~20日と休息10日として換算すると、以下の目安になり、水行一里の換算値と同長の70~140m(平均値105m)になる。

   末盧国~伊都国(五百里)=2.5日(35㎞)~5日(70㎞)
   伊都国~不彌国(一百里)=0.5日(7㎞)~1日(14㎞)
   不彌国~邪馬壹国(千四百)=7日(98㎞)~14日(196㎞)

 「倭人伝」景初2年6月に魏の京都洛陽に遣使を遣わした。同年12月、魏帝は女王卑彌呼の忠孝に対して詔書で報い「親魏倭王」に為したとあり、半年かからずに到着した。邪馬壹国~末盧国迄の陸行二千里(210㎞)=一月、末盧国~狗邪韓国迄の渡海三千余里(315㎞)=10日、帯方郡衙(平壌付近)迄の水行七千餘里(735㎞)=一月弱、渤海沿岸の水行と黄河河口~洛陽迄の河川航行を、地図上、1500~2000㎞(14300~19000里)とすれば、水行45~60(実質15~20)日の日程になり、併せると、110日~125日(略四ヶ月)で到着した。上記の記述に合致する。

6~12時間=草原を走る馬と違い海上での碇泊は難しいので、一航海の限度を超えた12時間以上の場合、潮流の変化や潮目に注意しながら休みなく漕ぎ続けたか、交代要員が居たと思う。また、河川航行の場合、往復の平均値と考える。
100㎞前後=「三国志」の300年後、「隋書流求伝」帝遣武賁郎將陳稜 朝請大夫張鎮州率兵 自義安浮海撃之至高華嶼 又東行二日至句辟嶼 又一日便至流求。大陸東南部の義安より高華嶼迄の日程は記述されないが、これを宮古島付近、句辟嶼を沖縄本島とすれば、地図上の約280㎞を二日、流求を奄美大島とすれば、同約120㎞の航海を一日で至ることになる。おそらく、北側を流れる黒潮に乗って航海すると思われる。
地図上=沿岸航海の場合、海岸から少し離れた海上を略直線で航行できるが、朝鮮半島か ら九州北部の場合、郡使や魏使は対馬海流(2㎞/h)に逆らう様に円弧を描き南下し、直線距離の倍近く航行するかも知れないので、一里「70~140m」 とした。何れにしても1日(6~12h)の航海。
3日サイクル=先述の宮崎康平氏は、朝鮮半島北部九州間の海峡は一週間で風向が変わる ので、7日(2日×3+予備1日)の日程とする。私説の水行10日は、航海日と休息日のセットで三航海=6日と、強風や波浪に拠る予備日(3~4日)も設 けて、最長で、9日~10日とした。陸行の場合も、これに則り、距離に則した日程に同日数の休息日と予備日を設けたと思われる。
500(800)㎞=帯方郡衙の通説的な比定地、ソウル(平壌)付近を目安にした。尚、自説の距離単位の一里「105m」とすれば、七千餘里=735余㎞となり、現在の平壌の南、南浦(ナムポ)付近になる。
唐代=(唐・五代)31.1㌢・1歩=5尺(155.5)・1里(360 歩=559.8㍍)、(周)19.9㌢・1歩=6尺(119.4)・1里(429.8㍍)、(秦・前漢)17.7㌢・1歩=5尺(138.5)・1里 (498.6㍍)、(新・後漢)23㌢・1歩=5尺(115)・1里(414㍍)、(魏・晋)24.1㌢・1歩=5尺(120.5)・1里(433.8 ㍍)、(北魏)27.9㌢・1歩=5尺(139.5)・1里(502.2㍍)、(隋)29.5㌢・1歩=5尺(147.5)・1里(531㍍)。何故か、 基準「尺」が長くなる。
休息日=朝鮮半島海峡や玄界灘を渡るのは、風や波の穏やかな夏期が良いと云われる。当時、平均気温が1度近く高かったと云われるので、現代日本の夏に近く、荷物を載せた河川航行用の平底船を曳いて上流へ遡るのは、従者にとって休息日なしでは厳しかったと思う。
河川の増水や悪天候=私説では、筑後川を渡る場合や台風等が考えられ、梅雨の時期は 丸々一ヶ月以上の足止めと云う事も在ったと思う。こうした日程では、休息日や予備日は、夫々、距離で換算した日数と同数の10日、黄河河口から洛陽迄の水 行は、15~20日と設定されていたかも知れない。
14㎞/日=本来、悪天候には移動できないので、予備日を使うと休息日が増え、平均の 移動距離は減る。また、最遅値に設定とした「20㎞/日」の場合、最速値の移動に比べると、移動10日では実質の距離が80㎞減るので、移動日が4日増 え、最短の日程が14日になる。例えば、①②×③△④×△⑤△⑥×△⑦△⑧×△⑨△⑩×△⑪△⑫×△⑬⑭(×休息・△予備)の様な日程で、20㎞ ×14(280㎞)÷26=10.76㎞、20㎞×19(380㎞)÷26=14.61㎞、20㎞×24(480㎞)÷26=18.46㎞。一日の移動時 間が増えて平均距離は、14.6㎞/日となる。
邪馬壹国=伊都国から卑彌呼の宮殿に向かった使者が勅書を受けてから出発したと考えられる。
渤海沿岸の水行=呉に服属したされる沿岸航海民と繋がった遼東太守公孫氏が、魏と対立していた頃の遣使とも云われるので、中国の大連から山東半島迄の渡海もあり得るが、この場合、帶方郡に属す沿岸航海民ではなく、この外洋海路を航行する海民への差配が必要になる。
略四ヶ月=往きの場合、黄河遡上に多くの日程を割き、還りは、魏使同様、海流に逆らう瀚海の渡海に多くの日程(10日)を割いたと思う。 






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