見まごう邪馬台国

◇阿利那礼川

  (F)東南至奴(なっ)国 百里

 「東南至」と在り、末盧国から伊都国と同方位へ百里、詰まり、末盧国から同じ道を陸行したのであれば、伊都国の前に記載されるべきで、始発地は伊都国として良い。前項(E)は方位を示唆した後、陸行とするが、(B)(D)項の方位を示さず、「一海」とする筆法とは異なり、本項では「東南」とされない事、次項(G)で「東至百里」とされる事とも関連し、この場合、伊都国からの同方向へ向かうが、途中、不彌国へ向かう道程から外れるか、伊都国で分岐して東への道を行ったか。何れにしても同じ道では不彌国へ通じないので、女王卑弥呼に詣で謁見する使者は奴国へは行ってない。それが「」とされない理由になる。実際には行かなかった奴国を記載した意図は、「伊都国にる」として奴国への道と不彌国・邪馬壹国へと続く道の分岐点と云う目的地に到着した事、「東南ならば、奴国に至る(仮定)」とし、今迄、来た道から外れる分岐点を示唆したと考える。
 通説では、奴国の比定地を福岡県福岡市の博多湾奥、その東側同県糟屋郡宇美町を不彌国とするが、邪馬壹国と同時代の佐賀県吉野ヶ里遺跡は地質調査等に拠 ると、当時、南側は有明海の干潟が広がっており、同様に御笠川や那珂川の河口が内陸部に入り、その福岡市博多区や東隣糟屋郡付近迄、満潮時、海道や水道を 使い水行で行けた。では、末盧国から伊都国、不彌国・邪馬壹国迄、陸行した理由は何だろうか。
 邪馬壹国前代、70~80年間、祭祀権と統治権を持つ男王(委奴)を戴いていたが、朝鮮半島を追われた新たな渡来民(衛氏朝鮮=遊牧民系)が地盤を固めて台頭し、旧来の男王を輩出する系統は、その既得権が剥奪された。それに服従しない一派は、狗奴(カナ)国の男王卑彌弓呼(ヒメカナ=秘 狗奴)として対抗したため倭国大乱となる。奴国連合の補佐官だった兕馬觚(ジマコ→チマコ)は女王を擁立する事で、邪馬壹国伊都国連合と合意し、奴国の官として命脈を保ち、防御上や戦略的に狗奴国に対する防人として伊都国南側の有明海沿岸部に配置された。詰まり、河岸や内海の湊津に臨み沿岸航行や平底船を 曳く河川水行(陸行)できたが、邪馬壹国伊都国連合は、その海道や水道に水門や関所を設けて封鎖し、一大率から動向を監察・検察する役目を負った武官(卑 奴母離)が派遣されていたと考える。(F)を意訳すると下記の如くなる。

   (伊都国と同方向の東南ならば至る奴国、百里程
 
 尚、福岡県筑紫郡那賀川町安徳の裂田神社由緒や「紀」神功皇后伝承の裂田溝等の記述 から、旧くは筑紫平野を南北に貫く水道の阿利那礼川が在ったとする研究者や論者もいる。また、天智天皇が新羅の侵攻に対して築かせたとされる福岡県太宰府 市の水城だが、本来、この水量を調整するために造られたと云う説も在る。更に、現在の地質学的調査では筑後川沿岸部扇状地の奥、福岡県朝倉市杷木町付近が 河口だったとされるので、満ち潮により、阿利那礼川を遡行した後、干潮時、両側へ引く潮を上手く利用して航行した。これを証明する手立ては満潮時、海水が流入した痕跡、汽水域に棲息する生物等の遺物を探るボーリング調査を行う以外にはない。何れにしても船を人力で引いて越したのだろうが、当時、博多湾と有 明海が往来できたとすれば、南至投馬国水行二十日や南至邪馬壹国水行十日は、伊都国での乗り換えも可能だったのかも知れないが、邪馬壹国と伊都国連合が統 治していた当時には既に使えなくなっていたのか、使わせなかったか。何れにしても編者陳寿の記述に拠り、それは否定されると思う。

委奴=倭・委[[・iuar][・ıuē][uəi]/奴[nag][no(ndo)][nu]=ィウアルナッ→ィワルナ(鰐) 岩魚(回帰)⇔山女(陸封) *別音 倭[・uar][ua][uo]
遊牧民系=この列島では広大な土地を必要とする遊牧生活には向かないので、遊牧民は耕作民や漁民を支配し、使役せざるを得ないと思う。
秘狗奴=春秋時代、大陸の東部にあった「斉」でも太陽を拝する習慣があったされるので、卑彌呼を日の巫女とすれば、「鬼道を能くし、衆を惑わす」とはされないと思う。「倭人伝」女王になって姿を見た者は少ない。と云う記述からすれば、「秘(ひめ)」とした方が良い。
 卑[pieg][piĕ][pi]彌[miər][miə(mbiə)][mi]弓[kıəuŋ][kıəŋ][kıoŋ]呼[hag][ho] [hu]の訓みは「ピェミェキゥァッヌッハッ→→ペメクァッヌッァッ→ピメカナ」、その語義を考え併せると、父系の宗女、巫女王の卑彌呼に対して、伊都 国に祭祀権を奪われた母系の「奴(箕子)」を祀る委奴国の覡王(婿=父系)と思われる。*「出雲国譲」天若日子に男性のトーテム「弓」と矢を託される。
 斉=周の武王が太公望の呂尚を封じた国(山東省)。都は営丘「淄博(しはく)市臨淄」。姜斉(前1122~前379)。田氏(田斉)の下で名目的な存在になる。南北朝の南斉・北斉。*淄=黒ずむ、どす黒く染める、川の名「淄水」、山東省莱蕪県を発する。
那珂川町=H26年11/12付の朝日新聞、東隣の同県春日市「須久タカウタ遺跡」から、国内最古、弥生時代前期(BC2世紀)の土製鋳型や有柄式銅剣の石製鋳型が見つかった。通常、この付近を奴国とするが、傍国の好古都国を「ハカタ」と訓み、この付近に比定した。




関連記事
スポンサーサイト
  1. 2015/12/26(土) 12:08:44|
  2. 5.思惑と意図
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<◇河川水行と陸行 | ホーム | ◇「到~」>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://mimago.blog.fc2.com/tb.php/86-295fe7ee
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)