見まごう邪馬台国

◇えらいこっちゃ

 陳寿は、邪馬台国への道程で方向性を誤認していたとする研究者は多い。例えば、以下(【】内)の如く頓珍漢な説明する論者もいる。

 【方向を示す場合、通常は四分法、または八分法が使用されます。現代の様な測量技術がなかった古代では四分法で言う場合が多く、『三国志』での方向記事 2237中、八分法で記載されているのは、僅か40ヶ所に止まります。したがって、「倭人伝」東南、伊都国に至る。東南、奴国に至る。東南、裸国・黒歯国 に至る。との八分法は、『三国志』でも珍しいと言えます。拙著では、倭人伝の17ヶ所の方向記事のそれぞれが、四分法、または八分法のどちらで記載されて いるかを検討しました。 四分法の方角は90度の幅を持ち、現実の「東南」は東と記す事もあるし、南と記す事もあります。
 一方、太陽の昇る方角を「東」として基準にすると夏至と冬至では約60度違うので四分法での「東」は、実に150度(90+60度)の幅を持ちます。太陽が昇る方向を基準として「東]を決める場合のもう一つの落とし穴は、午前中でも6時と11時頃では太陽の位置がかなり違うという事です。】  

 「三国志」の記述を精査した訳ではないが、常識的には、現在地から多くて四方向に延びる道路を説明するのが四分法で、東南向きでも南方向き道があったならば、東南が東とされた。また、八分法であれば、少なくとも五つ以上の方向に道が延びていたと考える。
 末盧国からの「東南陸行伊都国」は、途中、地形的な状況から南向きの本流松浦川から分岐して東向きの支流厳木川へ向かい陸行したとすれば、「」とした編者陳寿の意図は、今迄の道「東南至奴国」と分岐する道「東行至不彌国」の位置関係を示唆した。尚、「東南至裸国黒歯国」も朝鮮半島の沿岸航海と同様、九州東岸を南下後、太平洋岸を東行するか、瀬戸内海を東行後、紀伊半島を南下する対角線的な方向性になる。

 【古代人が正確な時刻を把握していたとも考えられず、方向を決める際に一日の中で、今、何時頃かを正確に認識していなければ、とんでもない方向誤認を起こす可能性があります。太陽が昇る方向を「東」とすれば、方向誤認は起こすはずがないという学者はざらにいますが、これは間違いです。季節に拠り、一日の 中でも時刻に拠り、太陽の位置は大幅に変化します(中略)。また、位置関係が略確実な唐津(末盧国)から糸島郡三雲(伊都国)への現実の方角は「東北東」にも拘わらず、倭人伝は「東南」と記しており、60~70度の方向誤認があります。この一点からしても、倭人伝の南は現実の地理でも南だ。とは言えません。 】

 これでは現代人に比べ、古代人は何の知識もない間抜けだと云わんばかり。時計を持ち、公共交通機関が在り、整備され道路標示や地図情報、磁石等の道具を 持つ現代人は、何も考えずとも殆ど迷う事なく目的地に到着する。当時でも時間の知識や道路の情報はあったが、道路や水路のない砂漠を何日も行く隊商等、ど うやって自分達の位置を知り、目的地に着いたのか。それは大海原を航海する海民も同じで、彼等は方向を誤認したら死ぬ。詰まり、当時、時間も一定の単位と して正当な認識があり、方向性も略正中していたと考える。
 帶方郡に服属する沿岸航海民の水先案内で郡衙から狗邪韓国、そこから邪馬壹国に服属する倭人系外洋航海民の水先案内で末盧国へ向かい下船した魏使は、伊 都国から派遣された武人や官吏に方向を問うた。何故なら誤った情報は戦略的にも意味をなさず、地理志としての資料や情報を収集するのも目的の一つだったた め、そうした技量や能力を持った官吏が同行、当時としての正確な記録を残した。以下、次回。

150度=当時の人々に、そうした幅が認識できなかった主張するのであれば、呆れてし まう。こうした説には向かいたい目的地へと云う思惑や意図があるからで、例えば、夏至と冬至の日出を基本にすれば、夫々を中心に90度の範囲が重なり合う 範囲の約30度になる。そこを大凡の東として、山木や塔等、不動の目印を設けた。それが故、古来、日出と日入の位置や星座を日毎に監察し、記録した。
道路=当時、大陸での移動は河川航行の水先案内か、馬車や乗馬に拠った。馬車の場合、馭者の道案内に随った。乗馬や陸行の場合、予備知識で以て目的地へ向かった。何れにしても明け方に出て、半日か、日没前に宿泊地や目的地に到着できる様に宿場や宿営地が設定された。
松浦川本流と支流厳木川=末盧国~伊都国へは、佐賀県東松浦郡相知町付近から佐賀県武 雄市方面へ南流する松浦川から東流する厳木川で向かうが、そこから不彌国へは治水用の掘り割りがあったか、大使や副使を輿に乗せ、荷物を負い徒歩で向かっ た。邪馬壹国へは、同様の平底船で多くの小河川に分流する今の筑後川を遡上、途中、流れの緩やかな場所の飛島や設えた飛び石を使い、満潮時の逆流を利用し て渡河した。尚、投馬国へは末盧国で沿岸航海民の船に乗り換えて九州西沿岸部から大村湾に入り、南下した。何度も述べたが、「南至投馬国」と「南至邪馬壹国」の始点は、倭人の領域北岸とされた狗邪韓国で、この「南至~」も四分法で、東・東南ではなくではなく南側と云うニュアンスになる。
地形的な状況=途中、本流や支流、分水嶺等の分岐点はあったかも知れないが、始発地から小高い山や丘陵に囲まれた川縁の道を遡り、分水嶺は谷間の踏みしめ道を辿った。
裸国黒歯国=「国名と官名」項で、この裸国と黒歯国を小笠原列島付近かとしたが、上質の黒曜石が採れる神津島や恩馳島等の伊豆諸島かも知れない。おそらく、九州か、四国の東岸から太平洋岸沖へ出て黒潮に乗り、東へ向かい、満ち潮に乗り、列島沿岸部の寄港地に碇泊した。
位置関係=『邪馬台国はなかった』の著者古田武彦は、伊都国への東南を「道標」とした。これにも、博多に遺跡が多く、当時の中心部でなければと云う著者の思惑と、その方面へ行かなければと云う意図的な操作がある。
方向性=古代エジプトの遺物の正確な方向性等からも判る。そうでなければ、東西南北と云う文字が創られた理由や、その意義がなくなる。時間や暦等も、現在のそれと全く同じではないが、当時としての論理があった。それが故、古来、太陽や月、星々の運行を観察した。





 
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  1. 2016/01/11(月) 08:09:36|
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