見まごう邪馬台国

◇論者の意図

 論者は以下の如く続ける。【方向の論理について、「地点と地点」と「地域と地域」を峻別し、倭人伝の17ヵ所の方向記事の夫々が、どちらにあたるかを検 討しています。則ち、末盧国から東南陸行500里で伊都国に至るとの旅程記事の「東南」は特定地点と特定地点、即ち末盧国中心から伊都国中心迄の特定方角 を示します。一方、狗奴国は邪馬台国の南という記事は、地域と地域を示すもので、狗奴国と邪馬台国の領域の大体の位置関係を表現しているものです。また、 視界内で起こる「方向座標軸の誤認」と視界外で起こる「地形誤認」に拠る方向誤認を区別しました。
 例えば、唐津(末盧国)から唐津湾越しに糸島半島(伊都国)へは視界内なので地形誤認はありえず、これを「東南」(実際の地理では東北東)とするのは、 方向座標軸に60~70度の狂いがある事になります。中国の会稽郡から日本列島を「会稽東治の東」とするのも60~70度の方向誤認がありますが、中国か ら日本列島は視界外なので「地形誤認」に拠る方向誤認です。則ち、会稽郡から実際の「東」を指差して倭国が、その方向に位置すると判断したのですが、日本 列島の位置を誤認したため実際の東には存在しないという事です。】

 例えば、現在でも「東は何方」と云う問いに対して、磁石で正確に計り、東を指す人は居ない。会稽山と日本列島の位置関係を「地形誤認」とするが、それこそ南や北ではなく、90度開きのある四分法「東」と考える。また、奴国から見て視界内の南に有る狗 奴国の「南」等、60~70度の方向誤認しているのだろうか。魏使等は、朝鮮半島迄の方向性は正しく認識していたが、狗邪韓国から末盧国、そこから見た糸 島方面の東北東を東南と誤認して記述したのか。または、尋ねた倭人や伊都国の官吏が自国の方向性を誤認していたのか。それとも実際を東南と認識したのか。

 更に、【さて、唐津(末盧国)に上陸した帯方郡使が唐津湾越しに視界内の糸島半島付け根にある伊都国を東南と判断したのは、60~70度の方向座標軸の 狂いがある事になります。倭人伝の方向記事を検討する場合、視界内かどうかは極めて重要なポイントです。視界内の誤認は方向座標軸の狂いに拠るものです。 この唐津から糸島半島への方向誤認は、帯方郡使が九州に上陸した季節に関係がありそうです。先に述べた様に、太陽が出る場所は夏至と冬至では約60度も違 います。もし、帯方郡使が夏至近くに九州に上陸して太陽の出る方角を東としたら、実際の東は「東南」と表示され、逆に冬の最中に上陸したら、実際の東は 「東北」と表示されます。】
 
 「三国志」等の漢籍、いや、当時の方向性の基準を北極星、太陽の昇る東(あがり)、沈む西(いり)とすべきだ。何故なら、AD100年頃に成立したとされる漢籍の漢字辞典『説文解字』等では「東」を昇る日と扶桑(神木)との会意文字と云う認識だったからだ。
 通説的に、伊都(いと)国を糸島半島南部福岡県前原市山手付近とする理由は、糸島(いとしま)の音通と同期の遺跡が豊富にある事だろうが、当時の移動手段を考える限り、末盧国から陸行せずとも沿岸航海用船に乗り換えて糸島付近迄、沿岸部を水行後、平底船に乗り換え、河岸の従者に曳かせて河川を遡り、南下した方が、遥かに楽 に早く着く。こうした事に就いて合理的な説明もないまま、態々、海岸沿いや付近迄の河川もない山中を陸行したとでも云うのか。当時の人々には方向性の誤認 識が在り、道程に不備があるとして、論者の意図する場所に向かいたいのだろうが、方向性の誤認、意にそぐわないから、一つの誤記や誤植とすれば、全てとも なりかねない。そういう危うさがあると知るべし。以下、次回。

狗奴国=「倭人伝」~次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里とある。
音通=「国々の比定」項でも述べるが、伊都国(有千餘戸)を佐賀県東松浦郡厳木(きうらぎ→いつき)町や同県多久市多久町石州分(西に八幡岳)付近に比定する(古賀山1号墳・東多久町)。熊本県鹿本郡鹿北町多久、その後、狗奴国との戦いに敗れ、福岡県前原市多久・三雲・有田付近で、卑彌呼死して葬られたのか。福岡県宗像市田久・田熊・東郷・西郷・南郷・田代・田熊付近の宗像大社に祀られる三女神とも関連があった。後代、大社系と八幡宮系に大別されて、旧石見国の島根県平田市(現出雲市)多久町・東郷町・西郷町に移動した。この「タク」と云う地名を負う人々が、邪馬壹国伊都国系か、投馬国系か、狗奴国系の人々なのかは定かではないが、何らかの人為的な動きがあった。*きうらぎ→教楽来(けうらぎ→きょうらぎ)
 佐賀県唐津市厳木町浦川内の河内遺跡では西九州に多い曽畑式土器が出土した。同県多久市は二万年前から人が住み生活を営み、約1万2千年前から狩猟を 行った。三年山遺跡や茶園原遺跡周辺に尖頭器、槍先形の石器等、最大規模の遺跡があり、縄文時代、台地に定住、産出する硬いサヌカイト(讃岐石)を用いて 狩猟・漁撈・採集の生活をした。弥生時代、稲作が普及、牟田辺遺跡等に集落を形成、安定した生活を営んだ。
同期=古来、列島には朝鮮半島や大陸東南部等、多くの人々が渡来し、自身の生業に適し た土地を目指した。福岡県前原市付近に住んだ人々はどういった人々だったのか。もう一つ、副葬される品々は伝世される事もあり、その製作年代が、その古墳 の築造年代を表すとは限らないと思う。
糸島水道=地質学や気象学に拠ると、当時、平均気温が一度程高く、縄文海進に近い状態で、満潮時、糸島半島基部には水道があった。奴国や不彌国が博多湾岸だったとすれば、沿岸航海で行けたが、何故か、末盧国以降、伊都国や不彌国へは陸行とされる。
 漢和大辞典に拠ると、「倭人伝」伊[・ıər][・ıi][i]/都[tag][to][tu]とあり、伊都国は八咫(やあた)や八幡(やはた)の音訳 「ヤァタ」とした。「いと」の音訳漢字も怡[diəg][yiei][i]、土[t`ag][t`o][t`u]とあり、隋唐期以後の中古音や近世音でな ければ、イェィト(イツ)とは読めない。後代、音韻変化に拠り、「イト(怡土)→イツ(厳)」に転音した後、音読みで「きう」にされた。「厳=ゴン・ゲ ン」とされるが、漢和大辞典に拠ると、厳[ŋıam][ŋıʌm][iem]と鼻濁音で始まり、「厳(木)」を字音で、「ヌギァム(のき)→ギァム(な ぎ)→キァウ(だぎ)→キァウ(らぎ)」、訓読では「ヌキムしい→キビしい」。また、糸島の「イト」と云う訓は、伊豆(いづ→いず)、伊東、出雲(いず も)等の地名と同源の「出(いづ)」で、飛び出した半島や、扇状地等、土砂の堆積で延び出る地。
楽に早く着く=『「邪馬台国」はなかった』の著者古田武彦氏は、「倭人伝」魏使等は朝 鮮半島西岸の北部は沿岸航海したが、「韓国を歴て」と云う語句を取り上げ、ここから上陸して半島南部を東南方向へ陸行したとする。その理由を魏帝の威信を 誇示するためとする。しかし、当時、辰韓・弁韓・馬韓の三韓が帶方郡に服属させられたのであれば、独立を目指す人々が居なかったなどあるまい。倭の産物、 風習や気候等、詳細に記録した魏使や郡使等が、魏帝の勅書と下賜品を女王に確実に届け、受領させると云う命を受け、そんな危険を冒すような間抜けではある まい。


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  1. 2016/01/15(金) 13:26:44|
  2. 5.思惑と意図
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