見まごう邪馬台国

◇誤認識

 更に、以下の如く続ける。【仮に帯方郡使が夏至の頃、唐津(末盧国)に上陸したとすると、その頃の太陽は糸島半島から昇ってきますので、糸島半島付け根 の三雲(伊都国)を東南と判断した可能性が高いのです。「倭人伝」九州上陸地点の末盧国「倭の水人好んで魚・アワビを捕え、水深浅と無く皆沈没して之を取 る」とあります。北部九州でアワビを採るのは八月中旬迄です。それ以降になると海にはクラ ゲが出て皮膚を刺すからです。同じく、末盧国の陸路を「草木茂盛し、行くに前人を見ず」というのも夏の光景です。もう一つ、古代の航海は気温・水温が低い 晩秋から早春、特に冬期は避けたものです。また、朝鮮海峡・対馬海峡・壱岐水道での季節的な風力は真夏が最も弱く航海の安全に適しています。以上の様に、 倭人伝の描写、及び航海の安全から見て、帯方郡使の九州上陸は盛夏であった可能性が強く、これが方向誤認を起こした理由の一つです。】

 >朝鮮海峡・対馬海峡・壱岐水道での季節的な風力は真夏が最も弱く航海の安全に適しています~云々。こうした知識を持った海民の水先案内で半島沿岸部や瀚海を渡った魏使が、末盧国から見た伊都国方面の東北東を「東南」に方向座標軸を誤認としたというが、昇る太陽を見て、東南と認識する等、有り得まい。況んや、狗邪韓国から対馬と、そこから壱岐も東南方向だとして、目視で「南」に誤認したとでも云うのだろうか。

 【中国大陸、及び朝鮮半島から見た日本列島の位置について、歴代の中国正史や他の漢籍は、全て朝鮮半島の「東南」としています(中略)。ところが、現実には朝鮮半島の東南は、九州、及び西中国だけで、日本列島全体(九州~関東~北海道)は朝鮮半島の東、または東北東に位置します。
 「会稽東治の東」「帯方の東南」』から分かる様に、60~70度の方向誤認があります。以上の様に、中国側は歴史的に一貫して日本列島の位置について、60~70度の方向誤認をしてきたのです。】

 漢籍には、倭(わ→やまと)国や日本(やまと→ひのもと)国等と記載される。また、平安遷都後でさえ、東に蝦夷が居る。これをして倭人の領域を日本列島全体とできるのか。「倭人伝」以下の記述から倭の範囲を東西を九州~中部地方、南北を北陸~紀伊半島南部の長方形として比定した。

 女王國東渡海千餘里復有國皆倭種 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里。又有裸國黑齒國復在其東南船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里 

  【1402年に朝鮮で世界地図として作成された『混一彊理歴代国都之図』が日本を南北に長い列島と配置しているのを根拠とし、古代中国では日本列島が朝鮮半島から台湾近く迄、南北に連なっていると誤認していたという有力説があります~云々。しかし、混一彊理図は、室賀信夫氏が畿内説の根拠として紹介した龍谷大学所蔵のもので教科書にも載っており有名です(中略)。ところが、本来、この混一彊理図は、中国での地図に日本から齎された行基図を合成した世界地図である。最近、長崎県島原市本光寺で龍谷大学所蔵図とは一字の違いの地図が発見され、それでは日本列島は東西に正しく配置されています。】

 今では、測量技術の発達や人工衛星等の画像で地球の様子が手に取る様に分かるが、江戸期でも伊能忠敬図の完成を待たなければ、列島の正確な形状と位置関 係は知られておらず、況んや、古代、大凡の形状や配置しか分からなかった。但し、こうした事と方向性を誤認する事とは意味が違う。当時、国外への移動は命がけだった。砂漠や外海を渡るとなれば、言わずもがな、当時の方向感覚や知識に対する我々の誤認識だと思う。

八月中旬=景初二年六月。倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。六月に 魏の京都洛陽に遣わしたと在り、当時の六月は、現在の7~8月の夏期として良い。その年の十二月、魏帝は女王に対して詔書で報いる。その後、帰途に就いた と思われる。次の「其(正始)四年倭王復遣使~云々」「其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授~云々」「其八年~云々(中略)、因齎詔書、黄幢。拜假難升 米、爲檄告喩之。卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩。殉葬者奴婢百餘人」も同月だったからか、何故か、月の記載はない。
方向座標軸の誤認=論者は方向の論理について、「地点と地点」と「地域と地域」を峻 別、末盧国から東南陸行500里で伊都国に至るとの旅程記事の「東南」は特定地点と特定地点とする。一方、狗奴国は邪馬台国の南という記事は地域と地域を 示すもので、狗奴国と邪馬台国の領域の大体の位置関係を表現している。また、視界内で起こる「方向座標軸の誤認」と視界外で起こる「地形誤認」に拠る方向 誤認を区別したと云う。
東南=漢書(82年)楽浪海中、魏志倭人伝(280年)帯方の東南、後漢書(5c前 半)韓の東南、宋書(488年)高麗の東南、南斉書(510年頃)帯方の東南、隋書(636年)百済新羅の東南、晋書(646年)帯方の東南、北史 (659年)百済新羅の東南、翰苑(660年)韓帯方楽浪の東南、通典(801年)帯方百済新羅の東南、旧唐書(946年)新羅の東南、唐会要(961 年)新羅の東南、新唐書(1060年)新羅の東南。等と、陳寿は倭を帶方東南山島依りて~とした後、外海を渡る基地狗邪韓国、倭の領域山島の北岸とした理 由はなんだろうか。 
倭の範囲=陸上に住む人々倭地の九州北部(西南部を含むか)邪馬壹国と伊都国連合と狗奴国(東南沿岸部には異種の侏儒國)とは対照的に、帶方郡東南の海上の山島に拠りて住む倭人は、次項のとも関連して北陸沿岸部付近迄と紀伊半島と同緯度の伊豆大島や八丈島付近にも住んだと考える。尚、内陸部には縄文系の狩猟採集民も居ただろうが、未だ交易等、接触がなかったのか、「倭人伝」に、その記載は見えない。
裸國・黑齒國=「国名と官名」項で、小笠原諸島か、としたが、伊豆諸島の神津島・恩馳 島で採れる黒曜石が本州に多く分布、沼津市の愛鷹山、三万八千年前の遺跡からも見つかったとされる。裸国=木々の生えない国、黒歯国=黒曜石の採れる国等 の意味があるのかもしれない。伊豆半島南東方の大島・利島(としま)・新島・神津島(こうづじま)・三宅島(みやけじま)・御蔵島(みくらじま)・八丈島 (はちじょうじま)の七島。各島黒潮につつまれ、近海は好漁場。椿油を産出。朝鮮半島の南西海上の済州島と同様、火山島により、地下水に乏しく雨水を利用 する所もある。
室賀信夫=畿内大和説、昭和31年に論文「魏志倭人伝に描かれた日本の地理像」
行基=飛鳥~奈良時代の僧侶(668~749年)。混一彊理図は、他にも天理図書館所蔵図、熊本県本妙寺所蔵図が有り、これらでも日本列島は、略正しく配置される。龍谷大学所蔵の混一彊理図は畿内説の根拠としては影が薄れ、評価が一変した云われる。



 
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  1. 2016/01/21(木) 22:31:11|
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