見まごう邪馬台国

◇南至の起点

  (H)南至投馬たぎま→たいま→とま)国 水行二十日

 通説では「南至」の起点を不彌国(福岡県糟屋郡宇美町)とするが、ここから南へ20日も水行する水道や海岸はない。「倭人伝」女王國渡海千餘里復有國皆倭種 有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里と云う記述から一大国から福岡県福岡市西区小呂(をろ)島、同県宗像市大島を経て九州北岸を千余里渡海すると別の倭種が有り、更に女王の領域から四千余里を隔て南の侏儒國を九州東南部とした。また、起点を帯方郡衙とする説もあるが、当時はエンジン付きの船と違い、主として櫂 を用いた手漕ぎの船で、最大速度は10ノット(18.52㎞/h)程度、実船相当の船速4~6ノット(7.5~11㎞/h)程、午前中の干満を利用した 6~12時間で、1ノット=一海里/h(約1852m)として約60~90㎞位を目安とし、当時、それを生業とする海民に拠る複数の手漕ぎ船であれば、 もっと早く進んだのかも知れないが、潮待ちや天候の影響等を考慮して馬の速歩と同様に、最速で100㎞/日と設定した。これを基本に帯方郡~狗邪韓国迄の七千余里を直線距離として地図上で計測すると、約650~850㎞を航行日と休息日や台風等の悪天候に因る予備日を設けた3日サイクルで、最長の日程「18~26日」となり、水行二十日では狗邪韓国付近迄が精一杯と思う。
  こうした事に則し、狗邪韓国~末盧国迄の三千余里(180~270㎞)を7日~14日(平均10日)、末盧国から投馬国迄は全水行二十日の残りの十日で到着したと考える。詰まり、「倭人伝」其北岸狗邪韓国からの始度一海と南至投馬国水行二十日が対応、倭人の領域東北岸とせず、北岸とした狗邪韓国から四分法での南への水行で投馬国に至る迄の最大日数が二十日となる。
 狗邪韓国の「到」は船を乗り換えただけではなく外洋航海民倭人領海に到った事、伊都国の「到」も、その領海を出て倭地の領域に到った事を示唆し、編者陳寿には、二つを併せて邪馬壹国女王の領域と云う認識だったと思う。(H)を意訳すると下記の如くなる。

  (倭の領域北岸狗邪韓国から南で至る投馬国 そこ迄 水行二十日程

 尚、末盧国には官や副官が記載がされないので、投馬国へは伊都国方面の碇泊地とは違う松浦半島西側の有田川河口奥で沿岸航行用船に乗り換えたと考えられる。詰まり、上陸した末盧国から伊都国迄、徒歩(河川水行)で東南へ陸行した魏使は向かっていない。それが「南至」とされない理由とも考えたが、次項でも「南至邪 馬壹国~」とされて、郡使等は邪馬壹国女王に謁見するため詣でたとあるので、里程(距離数)でない理由とも関連して、既に通過した南至の基点狗邪韓国から末盧国迄の里程も合算され、日程として記述されたと思われる。詰まり、帯方郡衙から狗邪韓国迄の総距離七千余理は既知の情報として文末に里程として記したが、そこから実際に水行した三千余里(日程)以外、当地での伝聞としての末盧国から投馬国迄の里程に費やす最長の日数、水行10日を併せた狗邪韓国からの 総日数が水行二十日になる。
 この投馬国への実質航海3~4日(最長で10日=三千余里)は、伊万里湾奥の佐賀県伊万里市二里町中里・大里・東山代町浦川内付近から有田川を下り、伊万里湾を出て、九州北岸を西側へ水行後、長崎県北松浦郡田平町と平戸間の水道を通り、大村湾東沿岸を南下した長崎県西彼杵郡多良見町中里名・浦川内・中通福井田、同県諫早市西里・松里・名切中通町・馬渡町・、同郡長与町中通・同郡時津(とぎつ)町中通・飯盛(飯盛岳)、長崎市中里中通付近一帯を投馬国中枢として比定した。その実質水行3~4日の停泊地に就いては次章の「国々の比定」で考える。

たぎま=投[dug][dəu][t`əu]・馬[măg][mă(mbă)] [ma]=「タグマグ→タッマッ」「テァゥマ(テァゥバ)→タゥマ(タゥバ)」。奈良県磯城郡三宅町但馬、同県北葛城郡當麻(たぎま→たいま→とう ま)町、長崎県長崎市田子の浦(たごのうら)・手熊(てぐま)・中通、同県西彼杵郡香焼町丹 馬(たんば)・里・馬手ヶ浦・角力(すもう)灘→周防(すぼう)灘→諏訪(すわ)灘、福岡県大牟田市田隈・同県福岡市早良区田隈、同県宗像市田熊・東郷 (西郷・南郷)、広島県因島市田熊・鏡浦町・土生町、岡山県津山市田熊・福井、福岡県八女市宅間田・福島・柳瀬、香川県三豊郡詫間町香田等の同系地名が在る。
 長崎県宇土市の曽畑貝塚で出土した縄文中期(BC3000年頃)の曽畑式土器の分布は特徴的で、九州西部から南は種子島・屋久島や沖縄まで分布するが、 東部の大分県や宮崎県からは出土せず、本州では山口県西岸の一部だけで内陸部には入っていない。BC5000~BC1500年頃、韓国慶尚南道釜山市の東 三洞遺跡から曽畑式土器と同様のものが発掘されて半島経由とされたが、古い時期の曽畑式土器が、鹿児島県日置郡金峰町(田代)阿多貝塚、同県大口市(里・ 田代・鳥巣・馬渡)の日勝山遺跡(隣に鶴田町)、同県姶良郡横川町(馬渡)の星塚遺跡、同県頴娃町(鶴田)折尾遺跡から発見されたため、南西諸島を北上した海民の関わりを否定できない。他にも福岡県甘木市大字矢野竹・田代の矢野竹(やのたけ)遺跡、佐賀県鳥栖市牛原町・轟木・田代の牛原前田遺跡、山口県西 岸でも出土した。南中国や東南アジアの海民が南西諸島伝い北上して伝えたと考える。
水道や海岸=先述した様に、「まぼろしの邪馬臺国」の著者宮崎康平氏は、当時、博多湾 奥の低地を南北に貫く水道が在ったとするが、そうした水道を利用したならば、何らかの示唆があると思われる。また、九州の西海岸では、邪馬壹国が投馬国の 南側に位置する事となり、女王国の最南端とされる奴国と狗奴国に対する位置関係に整合性がない。
東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里=女王国(一大 国)から東側へ千余里を渡海すると、また、倭人が国を有す。更には人長三四尺の女王国を去るの四千餘里南側に侏儒國が在る。この場合、地形的に九州北海岸と東海岸を結ぶ対角線的な航海だが、投馬国の場合、直角三角形の短辺と長辺を航海するので、狗邪韓国から見て、略南へ向かう。
櫂を用いた手漕ぎ船=風向きに拠っては帆を掛けたとも思われるが、夏期の朝鮮海峡や玄界灘は南風(はえ)で逆風になる。
約650~850㎞=通説的に帶方郡の比定地にはソウル付近や平壌付近がある。、
伊万里川河口奥=佐賀県伊万里市波多津町板木(いたぎ)の田島神社や中山の大山祇神社付近に一大率の役所、西側の三岳頂に見張り台があって、その動向を監視・検察されたのかも知れない。
~里=佐賀県唐津市中里・佐志中里中通、長崎県壱岐郡郷ノ浦町触・母ヶ浦・名切、同県北松浦郡福島町免・同郡田平町免(さとめん)・同郡鷹島町免・中通免・同郡鹿町町口ノ免・関・同郡生月町免・同郡佐々町・同郡世知原町中通免、同県佐世保市中里町・名切町・中通町・但馬越・針尾島指方町(飯盛山)・美町(木場山)・宮田町、同県東彼杵郡東彼杵町郷・名切・川内・木場・飯盛(飯盛山)、同郡川棚町中組・日向、同県大村市中里町・久原(市杵嶋神社)・大里町・木場(飯盛山)・玖島(大村神社)、同県長崎市中里町・木場(七面山)、同県北高来郡飯盛町名。他にも熊本県球磨郡湯前町中里・宮田・ 久米、高知県安芸郡安田町中里、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町中里、三重県北牟婁郡海山町中里、同県四日市市中里町、山口県小野田市中里・亀ノ甲、兵庫県三 木市細川町中里、同県神戸市北区中里町等。大村湾西岸を航海した場合、時津町付近、東岸の場合、多良見町付近が停泊地か。
福井田=長崎県天草郡有明町福井田・倉岳町宮田・御所浦町大通越・松島町教良城・苓北町木場と在るが、何故か、「里」の地名は無い。


 
関連記事
スポンサーサイト
  1. 2016/01/28(木) 14:16:04|
  2. 5.思惑と意図
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<◇本末転倒 | ホーム | ◇誤認識>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://mimago.blog.fc2.com/tb.php/91-88c1beb1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)