見まごう邪馬台国

◇海洋民と遊牧民

 「倭人伝」編者陳寿の思惑や意図を述べてきたが、末盧国中枢として佐賀県唐津市柏崎(柏崎遺跡・宇木汲田遺跡)で上陸後、伊都国中枢迄、佐賀県唐津市相知町伊岐佐(中原遺跡)→同市厳木町浦川内(河内遺跡)・広瀬・鶴田神社(浪瀬)の宿泊地は、末盧国の集落か、伊都国が派遣した一大率の見張台や役所だから記さないのだとすれば、不彌国以降、邪馬壹国(可七萬餘戸)迄の10~15程度の宿泊地名を記さないのも同様の理由として良い。だた、一つ疑問が在る。伊都国から邪馬壹国女王の宮殿には、東西に流れる河川も見あたらない地形の不彌国に向かわず、当時、有明海沿岸部だったと思しき佐賀県小城市牛津町とした奴国の泊津迄、多久川と牛津川を流れ下り、沿岸航海用船に乗り換えて有明海沿岸航行して、筑後川等の河川を遡上した方が楽に早く着いて合理的だと思うが、何故、魏使や郡使に河川を渡らせたのだろうか。
 例えば、「倭人伝」歴年、相攻伐した後、女王卑弥呼を擁して治まるとある。おそらく、「国」と次項の「国」 は同系国で、海民の棟梁だった投馬国王の女系(豊玉姫→卑彌呼→臺與)は外洋航海民と河川民や耕作民の連合国として奴国王(山幸彦)を婿として迎えていた が、伊都国台頭に因る倭国大乱を経て伊都国と奴国が対立すると、奴国王は宗女卑彌呼(豊玉姫→臺與)系統の壹與(玉依姫)を娶り、狗奴国として分裂したた め、海民投馬国王の娘婿、伊都国王(男弟)を摂政として邪馬壹国伊都国の連合が成立し、靡いた奴国(官兕馬觚)は海民との関係を剥奪され、その動向も一大 率に検察された。そうした経緯があり、有明海の海民を率いた狗奴国との最前線に於ける防人(さきもり)として置かれたと考える。
 他にも幾つかの疑問がある。人口の単位で、外洋航海民とした對海国「有千餘戸」と一大率の本役所の所在地とした一大国「有三千許(四千許りの家が有る)」との違いは、後者が役所に関わる官吏や神祇官、武人と製鉄民(技能集団)等の人口だとすれば、同単位の不彌国「有千餘」も同様の技能集団か、卑弥呼の如き巫女や占星術や陰陽師等の家系かもしれない。
 ただ、航海術等の知識も特殊技能としたので、他にも何らかの違いがあると思われる。例えば、壱岐のカラカミ遺跡の製鉄炉は、鉄の純度を高める精錬炉で、韓国の巨済島西側の小さな勒島(ぬくど)の炉に似ており、中国東北部や朝鮮半島北部の製鉄遊牧民と の関連が取り沙汰される。また、弥生土器も確認され、倭人が海を渡っていたとされるので、その担い手の海民には母系制が多く、長女が家船を嗣ぎ、成人男子 は新造船を仕立て独立し、代々の家を守るのではないのかも知れない。一方、遊牧(騎馬)民は末子相続とされ、姉妹は嫁ぐ時、年上の男子は嫁を取る時に両親 の財産(家畜)を分与されて独立、残った年少の男子がゲル(移動式住居)と、その家財を嗣ぐ。
 もう一つ、沿岸航海民と漁民の末盧国(有四千餘戸)と支配層の伊都国(有千餘戸)とは桁違いの人口を有す河民と耕作民の奴国(有二萬餘戸)、連合国中では大国の投馬国=五萬餘戸(五万余戸になる)と女王国都の邪馬壹国=七萬餘戸(七万余戸になる)、「有三千家」と「~餘戸」の何れもが「バカリ=計り」と訓じられる、こうした異表記にも陳寿の思惑や意図があるのだろうが、別の機会にしたい。

 以下、方向性と陸行の実質日数、末盧国~伊都国(五百里)=2.5日(35㎞)~5日(70㎞)、伊都国~不彌国(百里)=0.5日(7㎞)~1 日(14㎞)、不彌国~邪馬壹国(千四百里)=7日(98㎞)~14日(196㎞)を鑑みて邪馬壹国迄の行程を略図として示す。

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伊都国=その中枢を佐賀県多久市多久町山犬原(山犬原川)と多久川と今出川合流地点の南多久町牟田辺(牟田辺遺跡)や仁位所付近とした。
見張台=川を挟んだ南西対岸同市相知町相知の熊野神社が鎮座する松浦川と厳木川に挟ま れた小山、同町佐里の岸岳(城跡)から松浦川方面が一望できるので、一大率の山城や砦で出入りを見張り、検察した。後代、こうした見張台は、神籠石や山城 として使われた。尚、先に奴国として比定した佐賀県小城郡牛津町泊津からの有明海沿岸航海ではなく、松浦川を遡上、八幡岳を迂回して南下すると、陸行で中 枢部の同県武雄市に至る。
不彌国=佐賀県小城郡三日月町石木(土生・仁俣・久蘇遺跡)・金田(かなだ)・久米付 近とした。土生遺跡は佐賀平野西部の標高6~9mの扇状地に立地する弥生時代中期前半を盛期とする集落遺跡。多量の弥生土器とともに木製農工具(鋤や鍬、 斧柄)等の豊富な木製品が発見された。銅ヤリガンナ鋳型1点、青銅器鋳型2点、青銅器鋳型4点等が出土した。仁俣遺跡は土生遺跡北東側に隣接する弥生時代 を中心とする集落遺跡、弥生中期前半の土器とともに銅矛鋳型1点が出土。久蘇(くしょ)遺跡は土生遺跡の西側から南西部にかけて展開する弥生時代から近世 にかけての複合遺跡で、銅矛鋳型1点が出土している。土生遺跡群における青銅器生産は鋳型と土器の共伴関係から弥生時代中期前半と推定される。また、朝鮮 系無文土器が数多く出土、半島から渡ってきた渡来系の人々や本遺跡に居住していた弥生人達が青銅器生産に関わっていたと見られる。 
10~15程度=佐賀市大和町大字尼寺(一本木遺跡)・松瀬・久池井(肥前国庁跡)・佐保・東山田、佐賀県佐賀市金立(丸山遺跡)・福島・兵庫町、佐賀県神埼市千代田町高志(高志神社遺跡)・下板・大野・餘江(香椎神社)・崎村(冠者宮・真福寺)、佐賀県神崎郡吉野ヶ里(旧三田川)町田手・同郡神埼町鶴(吉野ヶ里遺跡)・馬郡・的(上・下仁比山神社)、佐賀県神埼郡東脊振村三津(三津永田環濠集落・石動遺跡)・大野、佐賀県三養基郡みやき(旧中原)町山田・同郡北茂安町板部(検見谷環濠集落)、佐賀県鳥栖市江島町本行(本行遺跡)・横田・大野、佐賀県鳥栖市柚比(ゆび)町安永田・田代(安永田環濠集落)・長野、福岡県小郡市横隈(横隈山遺跡)・御勢大霊石神社(大保)、10福岡県小郡市若山(若山遺跡)・大板井(小郡官衙遺跡)・小板井・馬渡・八坂、11福岡県朝倉(旧甘木)市平塚(平塚川添遺跡)・板屋・馬田・中原・奈良、12福岡県久留米市大橋町(宮地嶽神社)・草野町矢作・朝妻(筑後国府跡)・打越、13福岡県久留米市高良内町(持田遺跡)・柳瀬14福岡県八女市室岡(亀の甲環濠集落)・新庄の六反田遺跡・長野・納楚(のうそ)の柳・船底遺跡・柳瀬・川犬(宮地嶽神社)等が在る。
牛津町=佐賀県小城市牛津町柿樋瀬の生立ヶ里(うりゅうがり)遺跡・乙柳(おつやなぎ→いつやなぎ)同県多久市東多久町納所(のうそ)・柳瀬松瀬付近。尚、同市小城町池上・山崎・三里(みさと)の牛尾神社は多久川と晴気川に挟まれた中州上にある。
 納所=年貢等を納める倉庫。年貢を納める事、それを司る役人。寺院で施物を納め、会計等の寺務を司る所や僧。上記、「納所」に、そうした遺跡が在るとい う資料は見あたらないが、他にも以下の同地名があり、三重県津市納所町、京都府京都市伏見区納所・大野・星柳、岡山県岡山市納所(吉備津神社)・板倉、広 島県三原市沼田東町納所は、何れも幾つかの河川に挟まれた中州や河畔の小高い所、佐賀県東松浦郡肥前町納所(のうさ)・神田代・馬渡・晴気は小高い丘上の海岸縁にある。
狗奴国=狗[kug][kəu][kəu]・奴[nag][no(ndo)] [nu]。「倭人伝」成立期の上古音に拠ると、「クッナッ→カナ」、「記紀」成立期の中古音に拠ると、「カェウノ(カェウヌド)→ケウノ(ケウヌド)→ク ノ(クヌド)」となり、国=羅(ら)とすれば、クヌドラ(百済)と訓める。
防人=こうした事に関連するのか。福岡県の博多湾沿岸部福岡市西区生(いき)松原には壱岐 神社(祭神壱岐真根子)が在り、奴国の中枢とした佐賀県武雄市若木町川古・御所付近の伏尺(ふし)神社の伝承には、娘豊子の婿武内宿禰の身代わりで死んだ 壱岐直真根子の遺体を壱岐に運ぼうとしたが重すぎて、そこに葬ったとある。その南西には同市武内町亀の甲、同県杵島郡山内町犬走。その経緯は5世紀初頭 (履中期)創建された玄界灘に突き出る岬の突端にある福岡県宗像市鐘崎の式内名神大社織幡神社(壱岐真根子・武内宿禰・綿津見三神)に詳しいと云う。
技能集団=「魏志東夷伝」倭人が朝鮮半島南部で産する鉄に頼っていたと書き残す。壱岐 のカラカミ遺跡は、弥生中期後半(BC1世紀)から後期後半(AD2世紀頃)迄の300年間、その廃絶時期は「後漢書」が云う倭国大乱と重なる。北部九州 に鉄を供給し、長距離交易を行う中継基地として、朝鮮半島からの鉄素材が集配されたのか、複数の炉跡も確認された。屋内に炉を備え、工房の可能性が高い。 地面に穴を掘るのではなく、地上に炉を造る珍しい形態で、本土にはない。また、陰陽道では職神・式神(シキジン)の事を「みさき(御先)」とも称した。壱 州に来た陰陽師徒は「御先」を傭うのに簡単な方便よして、「やぼさ」と云う島に多く居る精霊を呪力で駆使する事。昔は、壱岐に矢保佐・矢乎佐等の社が大変 な数になる程あった。
 弥帆(やほ)=大船の舳先に張る小さな帆とあり、「倭人伝」航海の安全を祈願し、潔斎した持衰(じさい)と云う者を船の舳先(御先)に置いたとあり、矢 保佐(やぼさ)も同様の役目を担ったと考える。壱岐市芦辺町箱崎触の芳野家所蔵「神国愚童随筆」壱岐の神人の事とし、命婦(イチ)は女官長で大宮司・権大 宮司の妻か、娘がなり、斎(いつき→いっち)は陰陽師の妻が巫女になる。斎女(いつきめ→いっちめ)は、やぼさ社に常に参ると云う。
家系=例えば、茶道・華道等は家元や宗家と云われ、その家の技術や作法の知識等を一子 相伝して家系を守る。また、製鉄法や製陶技術にも秘伝があり、海民も、その海域に対する渡航技術や知識が彼等の糧となる。朝鮮の家父長制(宗家)に於ける 氏族(男系血族)の祖先発祥(本貫)の地名と姓と組み合わせて記し、他の氏族との区別を示す(例えば、安東金氏・慶州金氏)。韓国では現在も戸籍に記載す る。
支配者の伊都国=燕人の衛満が興した衛氏朝鮮が、秦の始皇帝に滅ぼされた後、その難を 逃れて渡来した王族や遊牧系の製鉄民等に比定した。彼等は列島での遊牧生活が難しかったので、漁民や耕作民を支配し、使役した。支配された奴国は、古朝鮮 の一つ殷王朝紂王の叔父箕子が、周武王に封ぜられて開いたとされる伝説上の箕子朝鮮(首都王倹城=平壌)。前195年頃、燕人の衛満に滅ぼされた後、難を 逃れて渡来した王族や青銅器制作者や畑作民等に比定した。 *論語「箕子、これを奴と為す」
 衛氏朝鮮(BC195頃~BC108)=古朝鮮の一つ。朝鮮北西部に逃れた燕人衛満の建国、都は王険城(平壌)。孫の右渠が漢の武帝に滅ぼされる。伊都国の支配者を、その難を避けて渡来した王族や貴族とした。男弟(年下の燕)が邪馬壹国女王を佐けたとある。

 燕(?~BC222)=中国古代、戦国七雄の一つ。始祖は周武王の弟召公奭。河北・東北南部・朝鮮北部を領し、薊(北京)に都、43世で秦の始皇帝に滅 ぼされる。4世紀初~5世紀初にかけて遊牧民の鮮卑(せんぴ)族慕容氏が建設した前燕・後燕・西燕・南燕・北燕等の国々(五胡十六国)。 






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  1. 2016/02/14(日) 22:35:40|
  2. 5.思惑と意図
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