見まごう邪馬台国

◇分岐点

   (E)東南陸行 五百里 到伊都(やぁた)国

 「東南陸」とされるので、前項の末盧国で上陸して実際に徒歩で向かったとして良い。前項と違い、~余里とされない理由は、風向きや潮流に因る影響を受けやすく、櫂を漕いだ回数や線香の燃える長さ等で時間 を計ったとしても、その時点の状況に拠って違う水行に比べて、陸行は縄を使ったり、歩測で略正確に測れたからだろうが、何れにしても日程と1日で移動する 大凡の距離を基本にして換算したと考える。
  国名は、伊[・ıər][・ıi][i]、都[tag][to][tu]=ヤァタ(八咫)→ヤワタ(八幡)→ヤバタ→ヤマタ(山田)、この音が八咫鏡に関連があるとすれば、末盧国の比定地とした佐賀県唐津市鏡(鏡山)、伊都国へ松浦川を遡ると佐賀県多久市と同県小城郡(現小城市)小城町栗原境にも鏡山が在る。
 八幡(やばた→やまた)とすれば、佐賀県唐津市八幡町、同県多久市、同県伊万里市、同県武雄市の境、八幡岳、佐賀県唐津市山田、隣町の同県東松浦郡(現 唐津市)浜玉町東山田、同県小城郡小城町と同郡三日月町を挟んで東側にも同県佐賀郡大和町東山田等が在る。(E)を読み下しすると下記の如くなる。

  (外洋航海民倭の領域南岸)末盧国で下船して、東南へ陸行、五百里で到る分岐点の伊都国

 尚、「對海国」で述べた文章の後半部には下記の如く気になる記述が在る。

 自女王国以北 特置一大率 検察諸国 諸国畏憚之 常治伊都国 於国中有如刺使
 王遣使詣京都帯方郡諸韓国 及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遣之物 詣女王不得差錯

  先述した宮崎康平氏等は「皆臨津捜露」と云う記述から伊都国が「津」に臨んでいるとする。現在より平均気温が1度程高かった当時、河川が縦横に走り、干潟があったので、殆どの国は荷役のため河川航行用平底船の泊津を設けたと思う。但し、海岸の湊津に臨んでいるのであれば、態々、末盧国から陸行したり、河川を遡上せずとも末盧国で沿岸航海用船に乗り換えて水行すれば良い。上記の如く、女王国 より以北の国々が恐れ憚ったと云う伊都国が司り、特置された一大率の官吏や武官と思しき卑狗や卑奴母離が派遣された對海国と一大国が湊津に臨んでいる事から「皆臨津捜露」は、一大率の官吏や役人の卑狗や卑奴母離が派遣された国々と考える。後半部を意訳すると下記の如くなる。

 の遣使が魏の京都や帯方郡、諸韓国に詣でて郡使が倭国に及ぶと、津に臨む地に派遣された一大率の官吏が夫々の任地で、文書や物品の照合点検(捜露)し、賜遣之物の目録を伝送、郡使は女王に詣でるので、差錯(あやま)り得ない。

  この「」と邪馬壹国女王は同一ではあるまい。伊都国の記述には「世王有皆統属女王国」とあり、後段では「名曰卑彌呼(中略)~有男弟佐治國」とされるので、女王を佐けた男弟=伊都国王(後の太政大臣)と考える。また、自女王国以北特置一大率検察諸国~云々から、他にも津に臨む国が在り、一大率の役所や検問所には官吏や武官(卑狗や卑奴母離)が派遣された。
 佐賀県伊万里市波多津町板木(いたぎ)、福岡県前原市板持、同県福岡市博多区板付(いたづけ)、同県北九州市小倉北区板櫃(いたびつ)、同県北九州市八 幡東区枝光(えだみつ)、同県田川市伊田、同県田川郡糸田町打越、熊本県上益城郡甲佐町糸田(同郡砥用町境に打越峠)、同県熊本市板屋町等、他にも、稲光(いなみつ→いだみつ→イェタミツ)、江田等の地名も関連があるかも知れない。
 尚、「伊都国」とされた理由は、末盧国からと同方向の東南への道で至る次項の奴国へは行かず、此処から東向きの道で不彌国、更には邪馬壹国への向かうための分岐点(目的地)に到着するからと考える。

八咫鏡=伊勢神宮のご神体とされる。伊都国比定地と目される平原遺跡(福岡県前原市) では大形彷製内行花文鏡(46.5㌢)が発掘されたと云われる。本来、伝世される鏡や剣等の重要な物が古墳に副葬される理由は、王や巫女等、被葬者が持っ ていた力を殺ぐためで、大きな鏡が副葬されたとすれば、被葬者の絶大な力が籠もる。また、壊された剣や鏡等は被葬者の魂の籠もる所持品で、何らかの理由で殺害されたと考えられる。尚、狗奴国の領域と思われる熊本県の鹿本郡鹿北町多久が在り、佐賀県多久市多久町、福岡県前原市多久、同県宗像市田久・田熊、島 根県平田市多久町、同県飯石郡三刀屋町多久和等があり、もしかしたら、「タク」は狗奴国系の東遷かもしれない。
卑狗や卑奴母離=常治伊都国 於国中有如刺使と在り、陳寿は、我国での刺史が負う役職とよく似ると感じた思われる。
稲光=福岡県鞍手郡若宮町稲光・平、同県京都郡苅田町稲光、山口県豊浦郡豊田町稲光・ 矢田(イェタ→ヤタ)、鳥取県西伯郡大山町稲光・長田。他にも福岡県北九州市戸畑区一枝、同県北九州市八幡西区椋枝、同県嘉穂郡穂波町枝国、同県山門郡三 橋町枝光、滋賀県大津市枝、同県甲賀郡信楽町江田、同県犬上郡豊郷町 、兵庫県神戸市西区枝吉、同県美嚢(みのう)郡吉川町畑枝、和歌山県西牟婁郡串本町江田、鳥取県八頭郡八東町重枝・富枝、同県出雲市江田町、広島県三次市 江田川之内町、同県安芸郡江田島町秋月、同県御調郡御調町江田、徳島県小松島市江田町、愛媛県松山市枝松、高知県吾川郡伊野町枝川、佐賀県鹿島市古枝、同 県神埼郡神埼町枝ケ里、熊本県玉名郡菊水町江田、大分県別府市枝郷、同県中津市枝町、同県竹田市枝等、穢多(ィエタ→エタ)とも関連があるのかも知れな い。 




  1. 2015/11/30(月) 10:21:07|
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◇「至」と「到」

  「三国志魏書第一」だけで、「至」=57ヶ所、「到」=16ヶ所程の使用例がある。全てを取り上げると煩雑なるので、説明し易い例文を取り上げて、その使用法を考えて見たいと思う。尚、前述した「誤読だらけの邪馬台国」の著者張明澄は、以下の如く述べる。
 【台湾中華書局印行「辞海」には、「至(至部)」=「極」「到」「大」「善」等の語義とあります。また、「到(刀部)」=「至」「周」「倒」「弔」等とあって、中国人や台湾人は、「至」を英語の「till」「until」、「到」を「reach」「arrive at」と云う語義として理解します。】
 上記に異存はないが、少し、私見を述べると、「至」=何らかの原因や経緯が付帯して至る。「到」=到着した。或いは、何らかの目的で以て到る。と云う ニュアンスがあると思う。冒頭の「太祖曹操の出生」を述べる文章から始めてみたい。順に原文、通説的な読み下しで、文脈が切れる箇所に「/」を入れながら、私見を述べる。

 (1)太祖武皇帝沛國譙人也姓曹諱操字孟德 漢相國參之後 桓帝世曹騰爲中常侍大長秋封費亭侯 養子嵩嗣太尉莫能審其生出本末 嵩生太祖
 太祖武皇帝は沛國(江蘇省)譙人なり。姓は曹、諱は操、字は孟徳/漢相國参の後裔、後漢桓帝の世(147~168)、祖父騰は中常侍大長秋に為って費亭侯に封じられる。その養子の嵩は、とうとう太尉に昇進する/その出生は審らかにはできないが、その嵩が太祖を生んだ。
 太祖の曾祖父から父である養子「嵩嗣」が太尉に昇進する迄の経緯を述べるので、至=極まるの意味で使われるとして良い。その後、養子「嵩嗣」は出生が審らかにできないと意味深な事を述べる。尚、太祖曹操を沛国(現江蘇省)の「譙」と云う地の人とするが、漢和大辞典「譙」項、高殿、物見櫓、木を守り、育てる樵(きこり)と同系字で、宮城の門番と守衛を担う武人(校尉)と云う意味を持つのかもしれない。

 (2)大將軍何進與袁紹謀誅宦官 太后不聽 進乃召董卓欲以脅太后 卓未而進見殺。卓 廢帝爲弘農王而立獻帝 京都大亂 卓表太祖爲驍騎校尉欲與計事 太祖乃變易姓名 間行東歸 出關過中牟 爲亭長所疑 執詣縣 邑中或竊識之爲請得解。卓遂殺太后及弘農王 太祖陳留 散家財合義兵將以誅卓。
 大將軍何進(荊州南陽郡宛県)、袁紹(予州汝南郡汝陽県)与に宦官を誅せんと謀る。太后聴かず。進、乃ち董卓(涼州隴西郡)を召し、以て太后を脅さんと欲す。/董卓、未だ至らずして、 何進が見殺しにされた後、卓、到り、帝を廢して弘農王と為し、而して獻帝を立てる。/(それが理由か)京都大いに亂る。董卓、太祖を驍騎校尉と為さんと発 令し、与に事を計らんと欲すが、太祖(曹操)、姓名を変易し、密かに市中に紛れて東へ歸る。関門を出て司隷河南尹の中牟を過ぎて、亭長の疑ふ所となり、執 らわれて県役所に詣る。/邑中、或る者、窃(ひそか)に、これを識り、請ひて解放される。それを知った董卓、遂に太后と弘農王を殺す。太祖陳留に至り、家 財を散じ、義兵を募集し、将に董卓を誅せんとす。
 初めの「至」も、何進は聴き容れない何太后(何進の親族)に対し、董卓を召した等の経緯を述べるが、その董卓には何らかの思惑があったのか、なかなか来ず、何進が何太后派に見す見す殺害された後、(董卓は太后派を排除する目的で)到着した。(その思惑通り)献帝を擁立するが、事を計るため、曹操の援助を得られないと悟った董卓は、進退窮まり、太后と弘農王を殺す。(そうした経緯を見て取った)太祖は兗州陳留に至り、家財を散じて義兵を将いて、董卓を誅す。尚、何進と召された董卓との詳細な関係は分からない。今回は、ここ迄。

曹=周代の国名。周武王の弟叔振鐸が封ぜられた国(現在の山東省)。25代で宋に滅ばされた(前487年)。何人もいる下級の役人(属官)、獄曹=法廷や牢獄の属官、軍曹=下士官の階級、属官の詰めている所。多くの同輩、複数の仲間とある。
相国参=漢の高祖劉邦の幼馴染みで、蕭何の亡き後、相国(宰相)となった人物とされる。次の祖父には「騰」と姓を記載するが、相国参と実父で養子の「嵩」には諱だけ記載、姓を省くのは、操の曾祖父「参」、参の子「曹騰」、曹騰の養子「嵩嗣」というニュアンスだろうが、「嵩」は曹操の実父だが、血縁の嫡(子孫)ではない。また、以下の記述、「太祖乃變易姓名間行東歸」=太祖、姓名を変易し、紛れて東へ帰ると云う記述からすれば、現在、姓氏「鄒(すう)」はあるが、「嵩」は見えないので、「?嵩嗣(すうし)」と、その実子「操(孟徳)」、共々養子に迎えたとも考えられる。  
費亭侯=秦漢期、盗賊の追捕を担った亭長の上司か、その意味は良く分からない。ただ、「字統」亭=宿舎と候望、物見の楼を兼ねるとあり、櫓や亭長(譙人?)の官舎等の建設と管理に対する費用を司る役職かもしれない。
献帝=中国王朝の一つ後漢。前漢の景帝の6世孫劉秀が、王莽(おうもう)の新朝を滅ぼして漢室を再興、洛陽に都して光武帝と称してから14代の献帝迄、前漢を西漢というのに対して東漢ともいう(25~220)。最後の皇帝で、曹操の子曹丕に帝位を献じた(禅譲)からか。






  1. 2015/12/10(木) 12:50:30|
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◇「到~」

 前項の「至」は何らかの経緯が付帯するが、「到」は、以下の如く、「何らかの目的で以て」として良いだろう。

 (1)邈、遣將衞茲、分兵隨太祖。滎陽汴水遇卓將徐榮。與戰不利、士卒死傷甚多。
 張邈、將の衛茲(え)を遣はし、兵を分けて太祖に隨わせしむ。滎陽(けいよう)・汴水(べんすい)に到り、卓の將、徐榮と遇ひ、戰ふも利ならず、士卒死 傷すること甚だ多し。→ 張邈の遣わした将衞茲は分兵して太祖に随わせた。太祖は滎陽汴水に到り、董卓の将徐榮に遭遇した。文脈的には、董卓を追うため で、その将徐榮に遇う事が目的ではないが、偶々、徐榮の居る滎陽汴水に到着した。

 (2)榮、見太祖所將兵少力戰盡日、謂酸棗未易攻也。亦引兵還。太祖酸棗。諸軍兵十餘萬、日置酒高會、不圖進取。
 徐榮は、太祖の將いる兵は少ないが、力戰して持ち堪えるのを見て、兗州陳留郡酸棗は、未だ攻むるに易からざるを謂ひ、亦、兵を引いて還る。太祖酸棗に到る。諸軍の兵十餘萬~云々。→ 徐榮の思惑とは関わりなく、太祖は諸軍の兵十餘萬と合流するために酸棗に到る。

 (3)術退保封丘。遂圍之。未合、術走襄邑。追太壽。決渠水灌城。走寧陵、又追之。走九江。夏、太祖還軍定陶。
 袁術は退き、兗州陳留郡封丘を保つ。遂に曹操は、これを囲むが、戦わないまま、袁術は兗州陳留郡襄邑に逃げる。これを追い太壽に到る。渠水を決して城に水を灌ぐと、袁術は予州梁国寧陵に逃げる。更に、これを追うと、中原を出て長江南岸揚州九江郡に逃げ帰ったので、夏、太祖還り、兗州済陰郡定陶に行軍す。→ 逃げる袁術を追う目的で到った太壽で、渠水を決して水を濯いだ。

 (4)會張邈與陳宮叛、迎呂布、郡縣皆應。荀彧程昱保鄄城、范東阿二縣固守。太祖乃引軍還。布、攻鄄城不能下、西屯濮陽。
 会した張邈と陳宮が叛して、迎える呂布に郡県司、皆応じる。荀彧(じゅんいく)、程昱(ていいく)は鄄城を保ち、兗州東郡范、兗州東郡東阿の二県を固守する。曹操は二人に任せて軍を引き還る。呂布、到り、兗州済陰郡鄄城を攻めるが下せず、兗州東郡濮陽の西に屯営す。→ 文脈的に、呂布は太祖が還ったのを 見計らい、鄄城を攻め滅ぼす目的で到る。

 (5)張濟、自關中走南陽。濟死、從子繡、領其衆。二年春正月、公宛。張繡降、既而悔之、復反。
 張濟、關中より荊州南陽郡に走る。濟が死んで、從子張繡、後を継ぎ其衆を領す。二年春正月、公(曹操)、同郡宛に到る。張繡は降伏したが、もう既に、これを悔い、再度、反く。→ 曹操は南陽郡に逃げた張濟を滅ぼす目的のために追って同郡宛に到る。

 (6)夏四月、公北救延。荀攸説公曰「今兵少不敵、分其勢乃可。公延津、若將渡兵、向其後者。紹必西應之。
 夏四月、公(曹操)は北に向かい劉延を救う。荀攸、曹操に説いて曰く「今、兵少なく敵わないので、袁紹の軍勢を分けさせるべし。曹操は、兗州陳留郡延津 に到り、兵を将い河を渡った後、西に向かったならば、袁紹は、必ず西に向かい、これに應じるだろう。→ 袁紹の軍勢を別けるための作戦を実施する目的で延 津に到る。

 (7)太祖兵少乃與夏侯惇等詣揚州募兵。刺史陳温丹楊太守周昕、與兵四千餘人。還龍亢士卒多叛。銍建平、復收兵得千餘人。
 太祖の兵は少ないので、夏侯惇(かこうとん)等と揚州に詣り、兵を募り、刺史陳温、丹楊郡太守周昕(しゅうきん)に四千餘人の兵を与えて、太祖は還り、 予州沛国龍亢に到る。士卒多く叛したため、予州沛国銍、建平に至り、再び兵を收め千餘人を得る。進みて河内に屯営す。→ 前段に在る何らかの目的で龍亢に 到る迄の間、士卒の多くが叛したと云う理由で、当初の目的ではない、銍、建平で、再び、兵を収め、千餘人を集める。

九江(Jiujiang)=中国江西省北部の都市。鄱陽(はよう)湖口に近く長江南岸に臨む河港。風光明媚の廬山(ろざん)がある。潯陽(じんよう)。九つの川が濯ぐ事から洞庭湖の旧称。
從子=当時、甥(おひ→おい)や姪(めひ→めい)という文字が無かったのだろうか。 「從子」とする理由はなんだろうか。日本では、従兄・従弟・従姉・従妹(いとこ)とされる。従う=強大で、不動・不変なものの権威や存在を認め、自分の行 動をそれに合わせる。後について行く。随行する。逆らわない。意のままになる。相手の言うなりになる。命ぜられた通りに行動する。降参する。屈服する。動 かされるままに動く。任せる。川・道等に沿う。その進む通りに行く(~から)。「遵う」とも書く。慣例・法規等に倣う。拠る。違反しないようにする。応ず る。順応する。従事する。その事に携わる。
 
  1. 2015/12/19(土) 09:18:47|
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◇阿利那礼川

  (F)東南至奴(なっ)国 百里

 「東南至」と在り、末盧国から伊都国と同方位へ百里、詰まり、末盧国から同じ道を陸行したのであれば、伊都国の前に記載されるべきで、始発地は伊都国として良い。前項(E)は方位を示唆した後、陸行とするが、(B)(D)項の方位を示さず、「一海」とする筆法とは異なり、本項では「東南」とされない事、次項(G)で「東至百里」とされる事とも関連し、この場合、伊都国からの同方向へ向かうが、途中、不彌国へ向かう道程から外れるか、伊都国で分岐して東への道を行ったか。何れにしても同じ道では不彌国へ通じないので、女王卑弥呼に詣で謁見する使者は奴国へは行ってない。それが「」とされない理由になる。実際には行かなかった奴国を記載した意図は、「伊都国にる」として奴国への道と不彌国・邪馬壹国へと続く道の分岐点と云う目的地に到着した事、「東南ならば、奴国に至る(仮定)」とし、今迄、来た道から外れる分岐点を示唆したと考える。
 通説では、奴国の比定地を福岡県福岡市の博多湾奥、その東側同県糟屋郡宇美町を不彌国とするが、邪馬壹国と同時代の佐賀県吉野ヶ里遺跡は地質調査等に拠 ると、当時、南側は有明海の干潟が広がっており、同様に御笠川や那珂川の河口が内陸部に入り、その福岡市博多区や東隣糟屋郡付近迄、満潮時、海道や水道を 使い水行で行けた。では、末盧国から伊都国、不彌国・邪馬壹国迄、陸行した理由は何だろうか。
 邪馬壹国前代、70~80年間、祭祀権と統治権を持つ男王(委奴)を戴いていたが、朝鮮半島を追われた新たな渡来民(衛氏朝鮮=遊牧民系)が地盤を固めて台頭し、旧来の男王を輩出する系統は、その既得権が剥奪された。それに服従しない一派は、狗奴(カナ)国の男王卑彌弓呼(ヒメカナ=秘 狗奴)として対抗したため倭国大乱となる。奴国連合の補佐官だった兕馬觚(ジマコ→チマコ)は女王を擁立する事で、邪馬壹国伊都国連合と合意し、奴国の官として命脈を保ち、防御上や戦略的に狗奴国に対する防人として伊都国南側の有明海沿岸部に配置された。詰まり、河岸や内海の湊津に臨み沿岸航行や平底船を 曳く河川水行(陸行)できたが、邪馬壹国伊都国連合は、その海道や水道に水門や関所を設けて封鎖し、一大率から動向を監察・検察する役目を負った武官(卑 奴母離)が派遣されていたと考える。(F)を意訳すると下記の如くなる。

   (伊都国と同方向の東南ならば至る奴国、百里程
 
 尚、福岡県筑紫郡那賀川町安徳の裂田神社由緒や「紀」神功皇后伝承の裂田溝等の記述 から、旧くは筑紫平野を南北に貫く水道の阿利那礼川が在ったとする研究者や論者もいる。また、天智天皇が新羅の侵攻に対して築かせたとされる福岡県太宰府 市の水城だが、本来、この水量を調整するために造られたと云う説も在る。更に、現在の地質学的調査では筑後川沿岸部扇状地の奥、福岡県朝倉市杷木町付近が 河口だったとされるので、満ち潮により、阿利那礼川を遡行した後、干潮時、両側へ引く潮を上手く利用して航行した。これを証明する手立ては満潮時、海水が流入した痕跡、汽水域に棲息する生物等の遺物を探るボーリング調査を行う以外にはない。何れにしても船を人力で引いて越したのだろうが、当時、博多湾と有 明海が往来できたとすれば、南至投馬国水行二十日や南至邪馬壹国水行十日は、伊都国での乗り換えも可能だったのかも知れないが、邪馬壹国と伊都国連合が統 治していた当時には既に使えなくなっていたのか、使わせなかったか。何れにしても編者陳寿の記述に拠り、それは否定されると思う。

委奴=倭・委[[・iuar][・ıuē][uəi]/奴[nag][no(ndo)][nu]=ィウアルナッ→ィワルナ(鰐) 岩魚(回帰)⇔山女(陸封) *別音 倭[・uar][ua][uo]
遊牧民系=この列島では広大な土地を必要とする遊牧生活には向かないので、遊牧民は耕作民や漁民を支配し、使役せざるを得ないと思う。
秘狗奴=春秋時代、大陸の東部にあった「斉」でも太陽を拝する習慣があったされるので、卑彌呼を日の巫女とすれば、「鬼道を能くし、衆を惑わす」とはされないと思う。「倭人伝」女王になって姿を見た者は少ない。と云う記述からすれば、「秘(ひめ)」とした方が良い。
 卑[pieg][piĕ][pi]彌[miər][miə(mbiə)][mi]弓[kıəuŋ][kıəŋ][kıoŋ]呼[hag][ho] [hu]の訓みは「ピェミェキゥァッヌッハッ→→ペメクァッヌッァッ→ピメカナ」、その語義を考え併せると、父系の宗女、巫女王の卑彌呼に対して、伊都 国に祭祀権を奪われた母系の「奴(箕子)」を祀る委奴国の覡王(婿=父系)と思われる。*「出雲国譲」天若日子に男性のトーテム「弓」と矢を託される。
 斉=周の武王が太公望の呂尚を封じた国(山東省)。都は営丘「淄博(しはく)市臨淄」。姜斉(前1122~前379)。田氏(田斉)の下で名目的な存在になる。南北朝の南斉・北斉。*淄=黒ずむ、どす黒く染める、川の名「淄水」、山東省莱蕪県を発する。
那珂川町=H26年11/12付の朝日新聞、東隣の同県春日市「須久タカウタ遺跡」から、国内最古、弥生時代前期(BC2世紀)の土製鋳型や有柄式銅剣の石製鋳型が見つかった。通常、この付近を奴国とするが、傍国の好古都国を「ハカタ」と訓み、この付近に比定した。




  1. 2015/12/26(土) 12:08:44|
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◇河川水行と陸行

  (G)東行至不彌(はみ)国 百里

 国名の後に里程が記載されると、「仮定」になるので、前項と共に実際には向かって居ないとする論者や研究者もいるが、道程を説明するのに無関係の国名を記載する理由が解らない。前項と違い「東」とされるので、実際に行ったと考える。所在地は違うが同じ道を行き、何処かで分岐したとしても末盧国からの距離とすれば、伊都国の前に記載されるべきで、奴国と同様、この始発地も伊都国になる。
 また、「東南陸行五百里到伊都国」と同様に陸行したため、前項の「東南至」は「行」を省いたとしても、「伊都国」とされた事に対する納得できる編者陳寿の意図を見いだせないので、奴国方面と不彌国方面への分岐点(衢)とする以外にはない。詰まり、今迄の同方向の道ではなく伊都国から邪馬壹国に向かうための東向きの道を行ったと考える。(G)を意訳すると下記の如くなる。

  (伊都国から奴国に通じる道を外れて東へ行けば至る不彌国 百里程

 本項と前項とも陸行と水行の何れも示唆されないので、何れでも行けたとする研究者や論者も居る。通説で不彌国は福岡県糟屋郡宇美(うみ)町付近とされ る。当時、縄文海進期に近い状況とされ、比定地も河川からの土砂が堆積した中州(陸=くが)や小高い丘(をか)が国域の全体と云った状態で、満潮時、西側 福岡県糟屋郡粕屋町や同郡志免町でも河口や海浜の干潟に浸水した。詰まり、泊津を設けて平底船で物資を運搬する様な状況で、おそらく、内陸部に在る伊都国 の本役所に向かい勅書や賜遺之物を搜露、点検後、邪馬壹国女王に詣でるため、小型船に大使や副使を乗せ、朝貢品等を載せて行ったはずだが、水行とされな かった理由は、河川航行用平底船を従者に曳かせる陸行(河川水行)だからと思われる。
 この国にも官多模、副卑奴母離とある事から人々の動向や物資の輸送を一大率から派遣さ れたと思しき副卑奴母離に管理された。また、この国名の不彌国をハム(馬銜)→ハブ(土生・埴生・羽生)とし、「国々の比定」でも述べるが、その比定地を 佐賀県小城郡(現小城市)小城町との境、同郡三日月町石木字土生(はぶ)の弥生中期の大規模集落土生(久蘇・仁俣)遺跡付近とした。
 例えば、上古では、海[mәg][hai][hai]と馬[măg][mă(mbă)][ma]の近似音にされる事、古英語、船(mere- hengest)=海の馬とされる事からも草原を走る馬、海原を走る船と云う意識があり、旧く舳先は龍頭や馬頭にされた。もしかしたらギリシャ神話に登場 するトロイの木馬も大きな木船だったのかもしれない。後代、南中国では、海の女神媽祖と される。こうした事から馬=船として、不彌国を邪馬壹国と伊都国連合に服属した海民陸鰐の国とすれば、本来、官「多模(たも→たま)」は對海(たま)国王 で海民連合国陸鰐系王だったが、奴国と同様、邪馬壹国と伊都国連合に靡き服属して命脈を保った。詰まり、前項と同様、その動向を検察するために派遣された 副官卑奴母離が官多模に轡と馬銜を着けて海民の勢力を制御した。
 不彌国と對海国は「記紀」海民が生母豊玉姫(婿取)と乳母玉依姫(嫁入)の二系(対)に分裂した事、「神 功紀」新羅討伐に住吉系海人(熊鰐?)が助力したとされる事、「仲哀紀」徳勒津(とくろつ)等と関連し、(字統)「勒」=馬を馭する革紐、勝手に動かない 様に引き締める・程よく調整する。古訓に「クツワ」「アラタム」と在り、不彌(はみ)=馬銜→食み・噛みは、「傍国考」でも述べるが、伊都国が派遣した一 大率の官吏や武官の管理下、巴利国が為吾国の人々を使役して潅漑施設を造らせて、奴国と不彌国等、女王国以北の国々に検問所や関所を設け、その水路や水道を封鎖させた。

土生遺跡=東西方向に流れる河川は見えないが、当時、河川を繋ぐ潅漑用水路で平底船を 使ったか、この道程も輿に大使や副使を乗せ、荷物は背負うか馬車等に載せて移動した後、東北方面の吉野ヶ里(佐賀県神埼郡神埼町鶴)の環濠集落や、幾つか の集落に宿泊した後、南下、流れが緩やかな筑後川の中州や飛島との間に設えられた飛び石等を使い渡河したと考える。
海の女神媽祖=馬は男系のトーテムで、騎馬民族は男系の末子相続とされる。海民や川民は母系制だったのか、中国大陸東南部の海民や蛋民では媽祖(女神豊玉姫)とされた。尚、日本海沿岸部の海民や漁民は諏訪大社(建御名方富神と八坂刀賣神)の御札を船霊とする、
巴利国=為吾国の「為」=(字統)手と象に従う。卜文や金文等では、手綱で象を使役す る形、土木工事等の工作を行う。「吾」=(字統)交差した木で蓋をして祝禱を入れた器(口)を敔(まも)るとあり、御(馭)=轡を着ける事と声義が近く通 用される。巴利国の「巴」=(字統)器の把手形、「説文」蟲は象を食(は)む蛇なりとし、字を蛇形に解する。(字統)「利」=禾と刀で、金文には犂鋤や犂 の形で見える。禾稲を刈り、収益を得る事=利益とあり、象を使役する事に関連し、巴利国の人(蛇)が為吾国の象(為吾国人?)を使役し、水路や水田等の土 木工事を掌っていたと考える。
水路や水道=とも関連して、山手から流れて有明海沿岸部に注ぐ河川は多いが、東西方向に流れる河川はないので、長(揚子)江下流域のクリークの如く河川と河川の間に用水路を造り、往来したが、一大率の武官に管理、観察された。



 
  1. 2015/12/31(木) 09:17:35|
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◇えらいこっちゃ

 陳寿は、邪馬台国への道程で方向性を誤認していたとする研究者は多い。例えば、以下(【】内)の如く頓珍漢な説明する論者もいる。

 【方向を示す場合、通常は四分法、または八分法が使用されます。現代の様な測量技術がなかった古代では四分法で言う場合が多く、『三国志』での方向記事 2237中、八分法で記載されているのは、僅か40ヶ所に止まります。したがって、「倭人伝」東南、伊都国に至る。東南、奴国に至る。東南、裸国・黒歯国 に至る。との八分法は、『三国志』でも珍しいと言えます。拙著では、倭人伝の17ヶ所の方向記事のそれぞれが、四分法、または八分法のどちらで記載されて いるかを検討しました。 四分法の方角は90度の幅を持ち、現実の「東南」は東と記す事もあるし、南と記す事もあります。
 一方、太陽の昇る方角を「東」として基準にすると夏至と冬至では約60度違うので四分法での「東」は、実に150度(90+60度)の幅を持ちます。太陽が昇る方向を基準として「東]を決める場合のもう一つの落とし穴は、午前中でも6時と11時頃では太陽の位置がかなり違うという事です。】  

 「三国志」の記述を精査した訳ではないが、常識的には、現在地から多くて四方向に延びる道路を説明するのが四分法で、東南向きでも南方向き道があったならば、東南が東とされた。また、八分法であれば、少なくとも五つ以上の方向に道が延びていたと考える。
 末盧国からの「東南陸行伊都国」は、途中、地形的な状況から南向きの本流松浦川から分岐して東向きの支流厳木川へ向かい陸行したとすれば、「」とした編者陳寿の意図は、今迄の道「東南至奴国」と分岐する道「東行至不彌国」の位置関係を示唆した。尚、「東南至裸国黒歯国」も朝鮮半島の沿岸航海と同様、九州東岸を南下後、太平洋岸を東行するか、瀬戸内海を東行後、紀伊半島を南下する対角線的な方向性になる。

 【古代人が正確な時刻を把握していたとも考えられず、方向を決める際に一日の中で、今、何時頃かを正確に認識していなければ、とんでもない方向誤認を起こす可能性があります。太陽が昇る方向を「東」とすれば、方向誤認は起こすはずがないという学者はざらにいますが、これは間違いです。季節に拠り、一日の 中でも時刻に拠り、太陽の位置は大幅に変化します(中略)。また、位置関係が略確実な唐津(末盧国)から糸島郡三雲(伊都国)への現実の方角は「東北東」にも拘わらず、倭人伝は「東南」と記しており、60~70度の方向誤認があります。この一点からしても、倭人伝の南は現実の地理でも南だ。とは言えません。 】

 これでは現代人に比べ、古代人は何の知識もない間抜けだと云わんばかり。時計を持ち、公共交通機関が在り、整備され道路標示や地図情報、磁石等の道具を 持つ現代人は、何も考えずとも殆ど迷う事なく目的地に到着する。当時でも時間の知識や道路の情報はあったが、道路や水路のない砂漠を何日も行く隊商等、ど うやって自分達の位置を知り、目的地に着いたのか。それは大海原を航海する海民も同じで、彼等は方向を誤認したら死ぬ。詰まり、当時、時間も一定の単位と して正当な認識があり、方向性も略正中していたと考える。
 帶方郡に服属する沿岸航海民の水先案内で郡衙から狗邪韓国、そこから邪馬壹国に服属する倭人系外洋航海民の水先案内で末盧国へ向かい下船した魏使は、伊 都国から派遣された武人や官吏に方向を問うた。何故なら誤った情報は戦略的にも意味をなさず、地理志としての資料や情報を収集するのも目的の一つだったた め、そうした技量や能力を持った官吏が同行、当時としての正確な記録を残した。以下、次回。

150度=当時の人々に、そうした幅が認識できなかった主張するのであれば、呆れてし まう。こうした説には向かいたい目的地へと云う思惑や意図があるからで、例えば、夏至と冬至の日出を基本にすれば、夫々を中心に90度の範囲が重なり合う 範囲の約30度になる。そこを大凡の東として、山木や塔等、不動の目印を設けた。それが故、古来、日出と日入の位置や星座を日毎に監察し、記録した。
道路=当時、大陸での移動は河川航行の水先案内か、馬車や乗馬に拠った。馬車の場合、馭者の道案内に随った。乗馬や陸行の場合、予備知識で以て目的地へ向かった。何れにしても明け方に出て、半日か、日没前に宿泊地や目的地に到着できる様に宿場や宿営地が設定された。
松浦川本流と支流厳木川=末盧国~伊都国へは、佐賀県東松浦郡相知町付近から佐賀県武 雄市方面へ南流する松浦川から東流する厳木川で向かうが、そこから不彌国へは治水用の掘り割りがあったか、大使や副使を輿に乗せ、荷物を負い徒歩で向かっ た。邪馬壹国へは、同様の平底船で多くの小河川に分流する今の筑後川を遡上、途中、流れの緩やかな場所の飛島や設えた飛び石を使い、満潮時の逆流を利用し て渡河した。尚、投馬国へは末盧国で沿岸航海民の船に乗り換えて九州西沿岸部から大村湾に入り、南下した。何度も述べたが、「南至投馬国」と「南至邪馬壹国」の始点は、倭人の領域北岸とされた狗邪韓国で、この「南至~」も四分法で、東・東南ではなくではなく南側と云うニュアンスになる。
地形的な状況=途中、本流や支流、分水嶺等の分岐点はあったかも知れないが、始発地から小高い山や丘陵に囲まれた川縁の道を遡り、分水嶺は谷間の踏みしめ道を辿った。
裸国黒歯国=「国名と官名」項で、この裸国と黒歯国を小笠原列島付近かとしたが、上質の黒曜石が採れる神津島や恩馳島等の伊豆諸島かも知れない。おそらく、九州か、四国の東岸から太平洋岸沖へ出て黒潮に乗り、東へ向かい、満ち潮に乗り、列島沿岸部の寄港地に碇泊した。
位置関係=『邪馬台国はなかった』の著者古田武彦は、伊都国への東南を「道標」とした。これにも、博多に遺跡が多く、当時の中心部でなければと云う著者の思惑と、その方面へ行かなければと云う意図的な操作がある。
方向性=古代エジプトの遺物の正確な方向性等からも判る。そうでなければ、東西南北と云う文字が創られた理由や、その意義がなくなる。時間や暦等も、現在のそれと全く同じではないが、当時としての論理があった。それが故、古来、太陽や月、星々の運行を観察した。





 
  1. 2016/01/11(月) 08:09:36|
  2. 5.思惑と意図
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◇論者の意図

 論者は以下の如く続ける。【方向の論理について、「地点と地点」と「地域と地域」を峻別し、倭人伝の17ヵ所の方向記事の夫々が、どちらにあたるかを検 討しています。則ち、末盧国から東南陸行500里で伊都国に至るとの旅程記事の「東南」は特定地点と特定地点、即ち末盧国中心から伊都国中心迄の特定方角 を示します。一方、狗奴国は邪馬台国の南という記事は、地域と地域を示すもので、狗奴国と邪馬台国の領域の大体の位置関係を表現しているものです。また、 視界内で起こる「方向座標軸の誤認」と視界外で起こる「地形誤認」に拠る方向誤認を区別しました。
 例えば、唐津(末盧国)から唐津湾越しに糸島半島(伊都国)へは視界内なので地形誤認はありえず、これを「東南」(実際の地理では東北東)とするのは、 方向座標軸に60~70度の狂いがある事になります。中国の会稽郡から日本列島を「会稽東治の東」とするのも60~70度の方向誤認がありますが、中国か ら日本列島は視界外なので「地形誤認」に拠る方向誤認です。則ち、会稽郡から実際の「東」を指差して倭国が、その方向に位置すると判断したのですが、日本 列島の位置を誤認したため実際の東には存在しないという事です。】

 例えば、現在でも「東は何方」と云う問いに対して、磁石で正確に計り、東を指す人は居ない。会稽山と日本列島の位置関係を「地形誤認」とするが、それこそ南や北ではなく、90度開きのある四分法「東」と考える。また、奴国から見て視界内の南に有る狗 奴国の「南」等、60~70度の方向誤認しているのだろうか。魏使等は、朝鮮半島迄の方向性は正しく認識していたが、狗邪韓国から末盧国、そこから見た糸 島方面の東北東を東南と誤認して記述したのか。または、尋ねた倭人や伊都国の官吏が自国の方向性を誤認していたのか。それとも実際を東南と認識したのか。

 更に、【さて、唐津(末盧国)に上陸した帯方郡使が唐津湾越しに視界内の糸島半島付け根にある伊都国を東南と判断したのは、60~70度の方向座標軸の 狂いがある事になります。倭人伝の方向記事を検討する場合、視界内かどうかは極めて重要なポイントです。視界内の誤認は方向座標軸の狂いに拠るものです。 この唐津から糸島半島への方向誤認は、帯方郡使が九州に上陸した季節に関係がありそうです。先に述べた様に、太陽が出る場所は夏至と冬至では約60度も違 います。もし、帯方郡使が夏至近くに九州に上陸して太陽の出る方角を東としたら、実際の東は「東南」と表示され、逆に冬の最中に上陸したら、実際の東は 「東北」と表示されます。】
 
 「三国志」等の漢籍、いや、当時の方向性の基準を北極星、太陽の昇る東(あがり)、沈む西(いり)とすべきだ。何故なら、AD100年頃に成立したとされる漢籍の漢字辞典『説文解字』等では「東」を昇る日と扶桑(神木)との会意文字と云う認識だったからだ。
 通説的に、伊都(いと)国を糸島半島南部福岡県前原市山手付近とする理由は、糸島(いとしま)の音通と同期の遺跡が豊富にある事だろうが、当時の移動手段を考える限り、末盧国から陸行せずとも沿岸航海用船に乗り換えて糸島付近迄、沿岸部を水行後、平底船に乗り換え、河岸の従者に曳かせて河川を遡り、南下した方が、遥かに楽 に早く着く。こうした事に就いて合理的な説明もないまま、態々、海岸沿いや付近迄の河川もない山中を陸行したとでも云うのか。当時の人々には方向性の誤認 識が在り、道程に不備があるとして、論者の意図する場所に向かいたいのだろうが、方向性の誤認、意にそぐわないから、一つの誤記や誤植とすれば、全てとも なりかねない。そういう危うさがあると知るべし。以下、次回。

狗奴国=「倭人伝」~次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里とある。
音通=「国々の比定」項でも述べるが、伊都国(有千餘戸)を佐賀県東松浦郡厳木(きうらぎ→いつき)町や同県多久市多久町石州分(西に八幡岳)付近に比定する(古賀山1号墳・東多久町)。熊本県鹿本郡鹿北町多久、その後、狗奴国との戦いに敗れ、福岡県前原市多久・三雲・有田付近で、卑彌呼死して葬られたのか。福岡県宗像市田久・田熊・東郷・西郷・南郷・田代・田熊付近の宗像大社に祀られる三女神とも関連があった。後代、大社系と八幡宮系に大別されて、旧石見国の島根県平田市(現出雲市)多久町・東郷町・西郷町に移動した。この「タク」と云う地名を負う人々が、邪馬壹国伊都国系か、投馬国系か、狗奴国系の人々なのかは定かではないが、何らかの人為的な動きがあった。*きうらぎ→教楽来(けうらぎ→きょうらぎ)
 佐賀県唐津市厳木町浦川内の河内遺跡では西九州に多い曽畑式土器が出土した。同県多久市は二万年前から人が住み生活を営み、約1万2千年前から狩猟を 行った。三年山遺跡や茶園原遺跡周辺に尖頭器、槍先形の石器等、最大規模の遺跡があり、縄文時代、台地に定住、産出する硬いサヌカイト(讃岐石)を用いて 狩猟・漁撈・採集の生活をした。弥生時代、稲作が普及、牟田辺遺跡等に集落を形成、安定した生活を営んだ。
同期=古来、列島には朝鮮半島や大陸東南部等、多くの人々が渡来し、自身の生業に適し た土地を目指した。福岡県前原市付近に住んだ人々はどういった人々だったのか。もう一つ、副葬される品々は伝世される事もあり、その製作年代が、その古墳 の築造年代を表すとは限らないと思う。
糸島水道=地質学や気象学に拠ると、当時、平均気温が一度程高く、縄文海進に近い状態で、満潮時、糸島半島基部には水道があった。奴国や不彌国が博多湾岸だったとすれば、沿岸航海で行けたが、何故か、末盧国以降、伊都国や不彌国へは陸行とされる。
 漢和大辞典に拠ると、「倭人伝」伊[・ıər][・ıi][i]/都[tag][to][tu]とあり、伊都国は八咫(やあた)や八幡(やはた)の音訳 「ヤァタ」とした。「いと」の音訳漢字も怡[diəg][yiei][i]、土[t`ag][t`o][t`u]とあり、隋唐期以後の中古音や近世音でな ければ、イェィト(イツ)とは読めない。後代、音韻変化に拠り、「イト(怡土)→イツ(厳)」に転音した後、音読みで「きう」にされた。「厳=ゴン・ゲ ン」とされるが、漢和大辞典に拠ると、厳[ŋıam][ŋıʌm][iem]と鼻濁音で始まり、「厳(木)」を字音で、「ヌギァム(のき)→ギァム(な ぎ)→キァウ(だぎ)→キァウ(らぎ)」、訓読では「ヌキムしい→キビしい」。また、糸島の「イト」と云う訓は、伊豆(いづ→いず)、伊東、出雲(いず も)等の地名と同源の「出(いづ)」で、飛び出した半島や、扇状地等、土砂の堆積で延び出る地。
楽に早く着く=『「邪馬台国」はなかった』の著者古田武彦氏は、「倭人伝」魏使等は朝 鮮半島西岸の北部は沿岸航海したが、「韓国を歴て」と云う語句を取り上げ、ここから上陸して半島南部を東南方向へ陸行したとする。その理由を魏帝の威信を 誇示するためとする。しかし、当時、辰韓・弁韓・馬韓の三韓が帶方郡に服属させられたのであれば、独立を目指す人々が居なかったなどあるまい。倭の産物、 風習や気候等、詳細に記録した魏使や郡使等が、魏帝の勅書と下賜品を女王に確実に届け、受領させると云う命を受け、そんな危険を冒すような間抜けではある まい。


  1. 2016/01/15(金) 13:26:44|
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◇誤認識

 更に、以下の如く続ける。【仮に帯方郡使が夏至の頃、唐津(末盧国)に上陸したとすると、その頃の太陽は糸島半島から昇ってきますので、糸島半島付け根 の三雲(伊都国)を東南と判断した可能性が高いのです。「倭人伝」九州上陸地点の末盧国「倭の水人好んで魚・アワビを捕え、水深浅と無く皆沈没して之を取 る」とあります。北部九州でアワビを採るのは八月中旬迄です。それ以降になると海にはクラ ゲが出て皮膚を刺すからです。同じく、末盧国の陸路を「草木茂盛し、行くに前人を見ず」というのも夏の光景です。もう一つ、古代の航海は気温・水温が低い 晩秋から早春、特に冬期は避けたものです。また、朝鮮海峡・対馬海峡・壱岐水道での季節的な風力は真夏が最も弱く航海の安全に適しています。以上の様に、 倭人伝の描写、及び航海の安全から見て、帯方郡使の九州上陸は盛夏であった可能性が強く、これが方向誤認を起こした理由の一つです。】

 >朝鮮海峡・対馬海峡・壱岐水道での季節的な風力は真夏が最も弱く航海の安全に適しています~云々。こうした知識を持った海民の水先案内で半島沿岸部や瀚海を渡った魏使が、末盧国から見た伊都国方面の東北東を「東南」に方向座標軸を誤認としたというが、昇る太陽を見て、東南と認識する等、有り得まい。況んや、狗邪韓国から対馬と、そこから壱岐も東南方向だとして、目視で「南」に誤認したとでも云うのだろうか。

 【中国大陸、及び朝鮮半島から見た日本列島の位置について、歴代の中国正史や他の漢籍は、全て朝鮮半島の「東南」としています(中略)。ところが、現実には朝鮮半島の東南は、九州、及び西中国だけで、日本列島全体(九州~関東~北海道)は朝鮮半島の東、または東北東に位置します。
 「会稽東治の東」「帯方の東南」』から分かる様に、60~70度の方向誤認があります。以上の様に、中国側は歴史的に一貫して日本列島の位置について、60~70度の方向誤認をしてきたのです。】

 漢籍には、倭(わ→やまと)国や日本(やまと→ひのもと)国等と記載される。また、平安遷都後でさえ、東に蝦夷が居る。これをして倭人の領域を日本列島全体とできるのか。「倭人伝」以下の記述から倭の範囲を東西を九州~中部地方、南北を北陸~紀伊半島南部の長方形として比定した。

 女王國東渡海千餘里復有國皆倭種 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里。又有裸國黑齒國復在其東南船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里 

  【1402年に朝鮮で世界地図として作成された『混一彊理歴代国都之図』が日本を南北に長い列島と配置しているのを根拠とし、古代中国では日本列島が朝鮮半島から台湾近く迄、南北に連なっていると誤認していたという有力説があります~云々。しかし、混一彊理図は、室賀信夫氏が畿内説の根拠として紹介した龍谷大学所蔵のもので教科書にも載っており有名です(中略)。ところが、本来、この混一彊理図は、中国での地図に日本から齎された行基図を合成した世界地図である。最近、長崎県島原市本光寺で龍谷大学所蔵図とは一字の違いの地図が発見され、それでは日本列島は東西に正しく配置されています。】

 今では、測量技術の発達や人工衛星等の画像で地球の様子が手に取る様に分かるが、江戸期でも伊能忠敬図の完成を待たなければ、列島の正確な形状と位置関 係は知られておらず、況んや、古代、大凡の形状や配置しか分からなかった。但し、こうした事と方向性を誤認する事とは意味が違う。当時、国外への移動は命がけだった。砂漠や外海を渡るとなれば、言わずもがな、当時の方向感覚や知識に対する我々の誤認識だと思う。

八月中旬=景初二年六月。倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。六月に 魏の京都洛陽に遣わしたと在り、当時の六月は、現在の7~8月の夏期として良い。その年の十二月、魏帝は女王に対して詔書で報いる。その後、帰途に就いた と思われる。次の「其(正始)四年倭王復遣使~云々」「其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授~云々」「其八年~云々(中略)、因齎詔書、黄幢。拜假難升 米、爲檄告喩之。卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩。殉葬者奴婢百餘人」も同月だったからか、何故か、月の記載はない。
方向座標軸の誤認=論者は方向の論理について、「地点と地点」と「地域と地域」を峻 別、末盧国から東南陸行500里で伊都国に至るとの旅程記事の「東南」は特定地点と特定地点とする。一方、狗奴国は邪馬台国の南という記事は地域と地域を 示すもので、狗奴国と邪馬台国の領域の大体の位置関係を表現している。また、視界内で起こる「方向座標軸の誤認」と視界外で起こる「地形誤認」に拠る方向 誤認を区別したと云う。
東南=漢書(82年)楽浪海中、魏志倭人伝(280年)帯方の東南、後漢書(5c前 半)韓の東南、宋書(488年)高麗の東南、南斉書(510年頃)帯方の東南、隋書(636年)百済新羅の東南、晋書(646年)帯方の東南、北史 (659年)百済新羅の東南、翰苑(660年)韓帯方楽浪の東南、通典(801年)帯方百済新羅の東南、旧唐書(946年)新羅の東南、唐会要(961 年)新羅の東南、新唐書(1060年)新羅の東南。等と、陳寿は倭を帶方東南山島依りて~とした後、外海を渡る基地狗邪韓国、倭の領域山島の北岸とした理 由はなんだろうか。 
倭の範囲=陸上に住む人々倭地の九州北部(西南部を含むか)邪馬壹国と伊都国連合と狗奴国(東南沿岸部には異種の侏儒國)とは対照的に、帶方郡東南の海上の山島に拠りて住む倭人は、次項のとも関連して北陸沿岸部付近迄と紀伊半島と同緯度の伊豆大島や八丈島付近にも住んだと考える。尚、内陸部には縄文系の狩猟採集民も居ただろうが、未だ交易等、接触がなかったのか、「倭人伝」に、その記載は見えない。
裸國・黑齒國=「国名と官名」項で、小笠原諸島か、としたが、伊豆諸島の神津島・恩馳 島で採れる黒曜石が本州に多く分布、沼津市の愛鷹山、三万八千年前の遺跡からも見つかったとされる。裸国=木々の生えない国、黒歯国=黒曜石の採れる国等 の意味があるのかもしれない。伊豆半島南東方の大島・利島(としま)・新島・神津島(こうづじま)・三宅島(みやけじま)・御蔵島(みくらじま)・八丈島 (はちじょうじま)の七島。各島黒潮につつまれ、近海は好漁場。椿油を産出。朝鮮半島の南西海上の済州島と同様、火山島により、地下水に乏しく雨水を利用 する所もある。
室賀信夫=畿内大和説、昭和31年に論文「魏志倭人伝に描かれた日本の地理像」
行基=飛鳥~奈良時代の僧侶(668~749年)。混一彊理図は、他にも天理図書館所蔵図、熊本県本妙寺所蔵図が有り、これらでも日本列島は、略正しく配置される。龍谷大学所蔵の混一彊理図は畿内説の根拠としては影が薄れ、評価が一変した云われる。



 
  1. 2016/01/21(木) 22:31:11|
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◇南至の起点

  (H)南至投馬たぎま→たいま→とま)国 水行二十日

 通説では「南至」の起点を不彌国(福岡県糟屋郡宇美町)とするが、ここから南へ20日も水行する水道や海岸はない。「倭人伝」女王國渡海千餘里復有國皆倭種 有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里と云う記述から一大国から福岡県福岡市西区小呂(をろ)島、同県宗像市大島を経て九州北岸を千余里渡海すると別の倭種が有り、更に女王の領域から四千余里を隔て南の侏儒國を九州東南部とした。また、起点を帯方郡衙とする説もあるが、当時はエンジン付きの船と違い、主として櫂 を用いた手漕ぎの船で、最大速度は10ノット(18.52㎞/h)程度、実船相当の船速4~6ノット(7.5~11㎞/h)程、午前中の干満を利用した 6~12時間で、1ノット=一海里/h(約1852m)として約60~90㎞位を目安とし、当時、それを生業とする海民に拠る複数の手漕ぎ船であれば、 もっと早く進んだのかも知れないが、潮待ちや天候の影響等を考慮して馬の速歩と同様に、最速で100㎞/日と設定した。これを基本に帯方郡~狗邪韓国迄の七千余里を直線距離として地図上で計測すると、約650~850㎞を航行日と休息日や台風等の悪天候に因る予備日を設けた3日サイクルで、最長の日程「18~26日」となり、水行二十日では狗邪韓国付近迄が精一杯と思う。
  こうした事に則し、狗邪韓国~末盧国迄の三千余里(180~270㎞)を7日~14日(平均10日)、末盧国から投馬国迄は全水行二十日の残りの十日で到着したと考える。詰まり、「倭人伝」其北岸狗邪韓国からの始度一海と南至投馬国水行二十日が対応、倭人の領域東北岸とせず、北岸とした狗邪韓国から四分法での南への水行で投馬国に至る迄の最大日数が二十日となる。
 狗邪韓国の「到」は船を乗り換えただけではなく外洋航海民倭人領海に到った事、伊都国の「到」も、その領海を出て倭地の領域に到った事を示唆し、編者陳寿には、二つを併せて邪馬壹国女王の領域と云う認識だったと思う。(H)を意訳すると下記の如くなる。

  (倭の領域北岸狗邪韓国から南で至る投馬国 そこ迄 水行二十日程

 尚、末盧国には官や副官が記載がされないので、投馬国へは伊都国方面の碇泊地とは違う松浦半島西側の有田川河口奥で沿岸航行用船に乗り換えたと考えられる。詰まり、上陸した末盧国から伊都国迄、徒歩(河川水行)で東南へ陸行した魏使は向かっていない。それが「南至」とされない理由とも考えたが、次項でも「南至邪 馬壹国~」とされて、郡使等は邪馬壹国女王に謁見するため詣でたとあるので、里程(距離数)でない理由とも関連して、既に通過した南至の基点狗邪韓国から末盧国迄の里程も合算され、日程として記述されたと思われる。詰まり、帯方郡衙から狗邪韓国迄の総距離七千余理は既知の情報として文末に里程として記したが、そこから実際に水行した三千余里(日程)以外、当地での伝聞としての末盧国から投馬国迄の里程に費やす最長の日数、水行10日を併せた狗邪韓国からの 総日数が水行二十日になる。
 この投馬国への実質航海3~4日(最長で10日=三千余里)は、伊万里湾奥の佐賀県伊万里市二里町中里・大里・東山代町浦川内付近から有田川を下り、伊万里湾を出て、九州北岸を西側へ水行後、長崎県北松浦郡田平町と平戸間の水道を通り、大村湾東沿岸を南下した長崎県西彼杵郡多良見町中里名・浦川内・中通福井田、同県諫早市西里・松里・名切中通町・馬渡町・、同郡長与町中通・同郡時津(とぎつ)町中通・飯盛(飯盛岳)、長崎市中里中通付近一帯を投馬国中枢として比定した。その実質水行3~4日の停泊地に就いては次章の「国々の比定」で考える。

たぎま=投[dug][dəu][t`əu]・馬[măg][mă(mbă)] [ma]=「タグマグ→タッマッ」「テァゥマ(テァゥバ)→タゥマ(タゥバ)」。奈良県磯城郡三宅町但馬、同県北葛城郡當麻(たぎま→たいま→とう ま)町、長崎県長崎市田子の浦(たごのうら)・手熊(てぐま)・中通、同県西彼杵郡香焼町丹 馬(たんば)・里・馬手ヶ浦・角力(すもう)灘→周防(すぼう)灘→諏訪(すわ)灘、福岡県大牟田市田隈・同県福岡市早良区田隈、同県宗像市田熊・東郷 (西郷・南郷)、広島県因島市田熊・鏡浦町・土生町、岡山県津山市田熊・福井、福岡県八女市宅間田・福島・柳瀬、香川県三豊郡詫間町香田等の同系地名が在る。
 長崎県宇土市の曽畑貝塚で出土した縄文中期(BC3000年頃)の曽畑式土器の分布は特徴的で、九州西部から南は種子島・屋久島や沖縄まで分布するが、 東部の大分県や宮崎県からは出土せず、本州では山口県西岸の一部だけで内陸部には入っていない。BC5000~BC1500年頃、韓国慶尚南道釜山市の東 三洞遺跡から曽畑式土器と同様のものが発掘されて半島経由とされたが、古い時期の曽畑式土器が、鹿児島県日置郡金峰町(田代)阿多貝塚、同県大口市(里・ 田代・鳥巣・馬渡)の日勝山遺跡(隣に鶴田町)、同県姶良郡横川町(馬渡)の星塚遺跡、同県頴娃町(鶴田)折尾遺跡から発見されたため、南西諸島を北上した海民の関わりを否定できない。他にも福岡県甘木市大字矢野竹・田代の矢野竹(やのたけ)遺跡、佐賀県鳥栖市牛原町・轟木・田代の牛原前田遺跡、山口県西 岸でも出土した。南中国や東南アジアの海民が南西諸島伝い北上して伝えたと考える。
水道や海岸=先述した様に、「まぼろしの邪馬臺国」の著者宮崎康平氏は、当時、博多湾 奥の低地を南北に貫く水道が在ったとするが、そうした水道を利用したならば、何らかの示唆があると思われる。また、九州の西海岸では、邪馬壹国が投馬国の 南側に位置する事となり、女王国の最南端とされる奴国と狗奴国に対する位置関係に整合性がない。
東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里=女王国(一大 国)から東側へ千余里を渡海すると、また、倭人が国を有す。更には人長三四尺の女王国を去るの四千餘里南側に侏儒國が在る。この場合、地形的に九州北海岸と東海岸を結ぶ対角線的な航海だが、投馬国の場合、直角三角形の短辺と長辺を航海するので、狗邪韓国から見て、略南へ向かう。
櫂を用いた手漕ぎ船=風向きに拠っては帆を掛けたとも思われるが、夏期の朝鮮海峡や玄界灘は南風(はえ)で逆風になる。
約650~850㎞=通説的に帶方郡の比定地にはソウル付近や平壌付近がある。、
伊万里川河口奥=佐賀県伊万里市波多津町板木(いたぎ)の田島神社や中山の大山祇神社付近に一大率の役所、西側の三岳頂に見張り台があって、その動向を監視・検察されたのかも知れない。
~里=佐賀県唐津市中里・佐志中里中通、長崎県壱岐郡郷ノ浦町触・母ヶ浦・名切、同県北松浦郡福島町免・同郡田平町免(さとめん)・同郡鷹島町免・中通免・同郡鹿町町口ノ免・関・同郡生月町免・同郡佐々町・同郡世知原町中通免、同県佐世保市中里町・名切町・中通町・但馬越・針尾島指方町(飯盛山)・美町(木場山)・宮田町、同県東彼杵郡東彼杵町郷・名切・川内・木場・飯盛(飯盛山)、同郡川棚町中組・日向、同県大村市中里町・久原(市杵嶋神社)・大里町・木場(飯盛山)・玖島(大村神社)、同県長崎市中里町・木場(七面山)、同県北高来郡飯盛町名。他にも熊本県球磨郡湯前町中里・宮田・ 久米、高知県安芸郡安田町中里、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町中里、三重県北牟婁郡海山町中里、同県四日市市中里町、山口県小野田市中里・亀ノ甲、兵庫県三 木市細川町中里、同県神戸市北区中里町等。大村湾西岸を航海した場合、時津町付近、東岸の場合、多良見町付近が停泊地か。
福井田=長崎県天草郡有明町福井田・倉岳町宮田・御所浦町大通越・松島町教良城・苓北町木場と在るが、何故か、「里」の地名は無い。


 
  1. 2016/01/28(木) 14:16:04|
  2. 5.思惑と意図
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◇本末転倒

  (南至邪馬壹(かまぃえ/やまぃえ)国 女王之所都 水行十日 陸行一月

 見まごうかな、南至を「東至」の間違いだとする研究者や論者がいる。何度でも云うが、末廬国で上陸して伊都国や不彌国へ徒歩で行く必要はない。況んや玄 界灘から瀬戸内海を経て「東至邪馬壹国水行十日+一月(水行四十日)とされて然る可きだろう。見まごうかな、短里の二千里では朝鮮半島東南部から畿内迄の 直線距離大凡900㎞にはならないので、公里「約434m」だと云う。縦しんば、そうだとしても倭人の領域北岸の狗邪韓国を「其西岸」として狗邪韓国から東側の福岡県宗像市沖ノ島、いや、島根県の隠岐島か、愛媛県大三島宗方とでもしなければ成立しない。当に本末転倒、意図的と云わざるを得ない。
 この「南至」の始点も狗邪韓国からの水行と陸行の総日数とすれば、この水行十日も狗 邪韓国から末盧国迄、実際に向かった水行三千余里の日程としての十日(実質航海3~4日)、陸行一月(実質陸行10~15日)は、末盧国で上陸後、伊都 国、不彌国を経て邪馬壹国迄を河川や水路沿道を歩いた日程で、これも狗邪韓国からの全日程と考える。()を意訳すると下記の如くなる。

  (倭の領域北岸狗邪韓国から)南で至る邪馬壹国女王が都する所(迄)水行十日 陸行一月

 当世、最高の文官だった編者陳寿は、この後、帶方郡より女王国迄、一万二千餘里で至るとして、帯方郡衙から韓国を歴て狗邪韓国迄の水行七千余里(最大 18~26日)と對海国と一大国と末盧国(半島を挟み東側の唐津湾岸)、夫々の渡海を合わせて三千余里=水行十日(実質3日)と残り、約二千里、領域内の 全里程を約五千里(水行十日と陸行一月)とした。詰まり、帯方郡衙~狗邪韓国迄の七千余里、狗邪韓国から末廬国迄の三千余里は最長で水行10日としたの で、末盧国から伊都国迄の陸行五百里、実際に向かってない奴国迄の百里を除き、不彌国迄の百里を足すと六百里、残り千四百里弱で邪馬壹国に至る。詰まり、 松浦半島付近の末盧国を中心に二千里(最大でも200㌔以内)では九州管内を出る事はない。
 述べてきた様に、「倭人伝」の編者陳寿は、その里程記事で帯方郡衙から朝鮮半島東南部への総距離七千餘里とした。その後、狗邪韓国、始度一海~とし、此処より倭人系海民の領海南側、女王国に属す對海国と一大国、末盧国を含む倭人陸鰐(くぬがわに)の海域(瀚海)を示唆した。一方、伊都国~は、末盧国以降、上陸後の邪馬壹国と伊都国連合の領域「倭地」を示唆したとすれば、(H)投馬国と() 邪馬壹国だけが、距離数ではなく日数で記述される理由が分かる。詰まり、帯方郡から韓国を歴て狗邪韓国に到る水行の総距離数七千余里を魏使は既知の情報に 従い水行した。そこから末盧国迄の海上領域三千余里(総日数十日)は実際に渡海し、一大率の官吏や武官からの伝聞を距離数に換算した情報となる。その海 民、陸鰐の領域末端(南岸)の末盧国で沿岸航行用船に乗り換えて西回りで、九州西岸を最長で十日(三千餘里)程、南下すると投馬国へ至ると云う日程は実際 に行ったかどうかは別として、これも伝聞としての情報になる。一方、邪馬壹国の水行十日も投馬国の水行二十日の半数と同様に狗邪韓国から末盧国への渡海に 要する最大日数で、南至邪馬壹国も狗邪韓国から南へ水行十日した後、末盧国から最長で一月程、大凡、南方向へ陸行すると女王の都邪馬壹国に至る。水行十 日、陸行一月は、倭人の領海である瀚海と陸上の倭地(狗奴国を除く)を併せた日程で、「南行」とされない理由は、前項と同様、不彌国からではなく、既に移 動した狗邪韓国からの里程を合わせ、日程に換算したからと考える。

「かまぃえ→カメ」=「記」神武東遷、亀の甲羅(海民の船)に乗り、釣りをしつつ羽擧(はぶ)来 る人と速吸門で出遭い棹(さを)を差し渡して御船に引き入れ、倭国造等祖槁根津日子(さをねつひこ)と名付く。亀が手足(船の櫂?)を鳥の如く動かす様子 を「ハブク」とする。また、「海幸山幸神話」御子葺不合尊の乳母として玉依姫が亀に乗って山幸の上国へ向かったとある。後者は「やまぃえ→ヤメ」。*福岡 県八女市亀の甲環濠遺跡
大凡900㎞=千餘里を約400㎞は一日で航海出来る距離ではない。日本海や瀬戸内海沿岸部、何れを航海しても玄界灘や響灘の海上では碇泊できないので、対馬の鰐浦、宗像の沖ノ島や大島、山口県北西岸や彦島等に停泊せざるを得ないが、記述されない理由が判らない。
東側=福岡県宗像市(東郷・南郷・同県福津市西郷)の沖ノ島から山口県下関市豊浦町川棚・宇賀・同県長門市油谷町・板持・大津郡日置町二位の浜、島根県隠岐郡海士町福井中里・都万村都万・(上・中)・五箇村北方・南方・山田・西郷町東郷・犬来(いぬぐ)、同郡西ノ島町宇賀、同県平田市(出雲市)奥宇賀・口宇賀・多久。倭人系海民と耕作民((河川民=里)が拡がったのか、海岸線を一周り、新たな耕作地を求め、河川を遡上して山間の谷へ入ったと思われる。「~里」と云う地名は他にも以下がある。
 新潟県中魚沼郡中里村田代、秋田県仙北郡太田町中里、青森県北津軽郡中里町八幡、岩手県一関市中里・宮田・山田、同県下閉伊郡岩泉町中里、同県二戸郡一 戸町中里、同県宮古市中里・板屋、宮城県石巻市中里、同県栗原郡高清水町(栗原市)中里、同県古川市(大崎市)中里、長野県東筑摩郡坂北村中里、山形県東 田川郡羽黒町中里・同郡櫛引町馬渡、同県天童市中里(西沼田遺跡/矢野目・弁財天神社)、同県西玉置郡小国町越中里・東置賜郡高畑町中里、同県山形市中里 (八幡神社)、福島県二本松市中里、同県石川郡浅川町中里、茨城県那珂郡瓜連町中里(鹿島神社)、同県西茨城郡岩瀬町中里、同県岩井市(坂東市)中里、栃 木県河内郡上河内町中里、同県小山市中里・鏡、群馬県甘楽郡妙義町中里、同県群馬郡群馬町中里、同県高崎市中里町、同県多野郡中里村(八幡宮)、埼玉県北 葛飾郡栗橋町中里、同県行田市中里・長野、同県児玉郡美里町中里・八幡関、同県坂戸市中里・金田(八幡神社)・新堀(金山神社)、同県与野市(さいたま 市)中里、千葉県我孫子市中里、同県勝浦市中里・山田、同県香取郡下総町中里・高倉・名古屋、同県木更津市中里・下宮田、同県館山市中里・犬石、同県長生 郡白子町中里・福島、同県野田市中里・山崎、東京都北区中里・新宿区中里町・市谷八幡町、同都清瀬市中里、神奈川県小田原市中里、同県中郡二宮町中里、同 県平塚市中里、同県横浜市南区中里、静岡県浜松市中里町、同県富士市中里町、同県焼津市中里、愛知県江南市大海道町中里、三重県四日市市中里町、滋賀県愛 知郡湖東町(東近江市)中里・下里、兵庫県神戸市北区中里・同県三木市細川町中里・口吉川町中里、和歌山県牟婁郡那智勝浦町中里、山口県小野田市中里、高 知県安芸郡安田町中里。
南至=これも四分法で云う大凡「南」と云うニュアンスで、帯方郡衙から見て東南海上の山島に依りて住む倭人系海民が分裂、東側に住む倭種とは別の倭人系海民と耕作民(陸鰐)の領海と倭地(邪馬壹国伊都国連合)の領域を合わせ、狗邪韓国から見て南側とする。
最大でも200㌔=東南陸行五百里(最長50㎞)+東行百里(最長10㎞)+南側千四百里(最長140㎞)で、半径二千里ではない。




  1. 2016/02/04(木) 16:46:10|
  2. 5.思惑と意図
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◇海洋民と遊牧民

 「倭人伝」編者陳寿の思惑や意図を述べてきたが、末盧国中枢として佐賀県唐津市柏崎(柏崎遺跡・宇木汲田遺跡)で上陸後、伊都国中枢迄、佐賀県唐津市相知町伊岐佐(中原遺跡)→同市厳木町浦川内(河内遺跡)・広瀬・鶴田神社(浪瀬)の宿泊地は、末盧国の集落か、伊都国が派遣した一大率の見張台や役所だから記さないのだとすれば、不彌国以降、邪馬壹国(可七萬餘戸)迄の10~15程度の宿泊地名を記さないのも同様の理由として良い。だた、一つ疑問が在る。伊都国から邪馬壹国女王の宮殿には、東西に流れる河川も見あたらない地形の不彌国に向かわず、当時、有明海沿岸部だったと思しき佐賀県小城市牛津町とした奴国の泊津迄、多久川と牛津川を流れ下り、沿岸航海用船に乗り換えて有明海沿岸航行して、筑後川等の河川を遡上した方が楽に早く着いて合理的だと思うが、何故、魏使や郡使に河川を渡らせたのだろうか。
 例えば、「倭人伝」歴年、相攻伐した後、女王卑弥呼を擁して治まるとある。おそらく、「国」と次項の「国」 は同系国で、海民の棟梁だった投馬国王の女系(豊玉姫→卑彌呼→臺與)は外洋航海民と河川民や耕作民の連合国として奴国王(山幸彦)を婿として迎えていた が、伊都国台頭に因る倭国大乱を経て伊都国と奴国が対立すると、奴国王は宗女卑彌呼(豊玉姫→臺與)系統の壹與(玉依姫)を娶り、狗奴国として分裂したた め、海民投馬国王の娘婿、伊都国王(男弟)を摂政として邪馬壹国伊都国の連合が成立し、靡いた奴国(官兕馬觚)は海民との関係を剥奪され、その動向も一大 率に検察された。そうした経緯があり、有明海の海民を率いた狗奴国との最前線に於ける防人(さきもり)として置かれたと考える。
 他にも幾つかの疑問がある。人口の単位で、外洋航海民とした對海国「有千餘戸」と一大率の本役所の所在地とした一大国「有三千許(四千許りの家が有る)」との違いは、後者が役所に関わる官吏や神祇官、武人と製鉄民(技能集団)等の人口だとすれば、同単位の不彌国「有千餘」も同様の技能集団か、卑弥呼の如き巫女や占星術や陰陽師等の家系かもしれない。
 ただ、航海術等の知識も特殊技能としたので、他にも何らかの違いがあると思われる。例えば、壱岐のカラカミ遺跡の製鉄炉は、鉄の純度を高める精錬炉で、韓国の巨済島西側の小さな勒島(ぬくど)の炉に似ており、中国東北部や朝鮮半島北部の製鉄遊牧民と の関連が取り沙汰される。また、弥生土器も確認され、倭人が海を渡っていたとされるので、その担い手の海民には母系制が多く、長女が家船を嗣ぎ、成人男子 は新造船を仕立て独立し、代々の家を守るのではないのかも知れない。一方、遊牧(騎馬)民は末子相続とされ、姉妹は嫁ぐ時、年上の男子は嫁を取る時に両親 の財産(家畜)を分与されて独立、残った年少の男子がゲル(移動式住居)と、その家財を嗣ぐ。
 もう一つ、沿岸航海民と漁民の末盧国(有四千餘戸)と支配層の伊都国(有千餘戸)とは桁違いの人口を有す河民と耕作民の奴国(有二萬餘戸)、連合国中では大国の投馬国=五萬餘戸(五万余戸になる)と女王国都の邪馬壹国=七萬餘戸(七万余戸になる)、「有三千家」と「~餘戸」の何れもが「バカリ=計り」と訓じられる、こうした異表記にも陳寿の思惑や意図があるのだろうが、別の機会にしたい。

 以下、方向性と陸行の実質日数、末盧国~伊都国(五百里)=2.5日(35㎞)~5日(70㎞)、伊都国~不彌国(百里)=0.5日(7㎞)~1 日(14㎞)、不彌国~邪馬壹国(千四百里)=7日(98㎞)~14日(196㎞)を鑑みて邪馬壹国迄の行程を略図として示す。

    doutei1

伊都国=その中枢を佐賀県多久市多久町山犬原(山犬原川)と多久川と今出川合流地点の南多久町牟田辺(牟田辺遺跡)や仁位所付近とした。
見張台=川を挟んだ南西対岸同市相知町相知の熊野神社が鎮座する松浦川と厳木川に挟ま れた小山、同町佐里の岸岳(城跡)から松浦川方面が一望できるので、一大率の山城や砦で出入りを見張り、検察した。後代、こうした見張台は、神籠石や山城 として使われた。尚、先に奴国として比定した佐賀県小城郡牛津町泊津からの有明海沿岸航海ではなく、松浦川を遡上、八幡岳を迂回して南下すると、陸行で中 枢部の同県武雄市に至る。
不彌国=佐賀県小城郡三日月町石木(土生・仁俣・久蘇遺跡)・金田(かなだ)・久米付 近とした。土生遺跡は佐賀平野西部の標高6~9mの扇状地に立地する弥生時代中期前半を盛期とする集落遺跡。多量の弥生土器とともに木製農工具(鋤や鍬、 斧柄)等の豊富な木製品が発見された。銅ヤリガンナ鋳型1点、青銅器鋳型2点、青銅器鋳型4点等が出土した。仁俣遺跡は土生遺跡北東側に隣接する弥生時代 を中心とする集落遺跡、弥生中期前半の土器とともに銅矛鋳型1点が出土。久蘇(くしょ)遺跡は土生遺跡の西側から南西部にかけて展開する弥生時代から近世 にかけての複合遺跡で、銅矛鋳型1点が出土している。土生遺跡群における青銅器生産は鋳型と土器の共伴関係から弥生時代中期前半と推定される。また、朝鮮 系無文土器が数多く出土、半島から渡ってきた渡来系の人々や本遺跡に居住していた弥生人達が青銅器生産に関わっていたと見られる。 
10~15程度=佐賀市大和町大字尼寺(一本木遺跡)・松瀬・久池井(肥前国庁跡)・佐保・東山田、佐賀県佐賀市金立(丸山遺跡)・福島・兵庫町、佐賀県神埼市千代田町高志(高志神社遺跡)・下板・大野・餘江(香椎神社)・崎村(冠者宮・真福寺)、佐賀県神崎郡吉野ヶ里(旧三田川)町田手・同郡神埼町鶴(吉野ヶ里遺跡)・馬郡・的(上・下仁比山神社)、佐賀県神埼郡東脊振村三津(三津永田環濠集落・石動遺跡)・大野、佐賀県三養基郡みやき(旧中原)町山田・同郡北茂安町板部(検見谷環濠集落)、佐賀県鳥栖市江島町本行(本行遺跡)・横田・大野、佐賀県鳥栖市柚比(ゆび)町安永田・田代(安永田環濠集落)・長野、福岡県小郡市横隈(横隈山遺跡)・御勢大霊石神社(大保)、10福岡県小郡市若山(若山遺跡)・大板井(小郡官衙遺跡)・小板井・馬渡・八坂、11福岡県朝倉(旧甘木)市平塚(平塚川添遺跡)・板屋・馬田・中原・奈良、12福岡県久留米市大橋町(宮地嶽神社)・草野町矢作・朝妻(筑後国府跡)・打越、13福岡県久留米市高良内町(持田遺跡)・柳瀬14福岡県八女市室岡(亀の甲環濠集落)・新庄の六反田遺跡・長野・納楚(のうそ)の柳・船底遺跡・柳瀬・川犬(宮地嶽神社)等が在る。
牛津町=佐賀県小城市牛津町柿樋瀬の生立ヶ里(うりゅうがり)遺跡・乙柳(おつやなぎ→いつやなぎ)同県多久市東多久町納所(のうそ)・柳瀬松瀬付近。尚、同市小城町池上・山崎・三里(みさと)の牛尾神社は多久川と晴気川に挟まれた中州上にある。
 納所=年貢等を納める倉庫。年貢を納める事、それを司る役人。寺院で施物を納め、会計等の寺務を司る所や僧。上記、「納所」に、そうした遺跡が在るとい う資料は見あたらないが、他にも以下の同地名があり、三重県津市納所町、京都府京都市伏見区納所・大野・星柳、岡山県岡山市納所(吉備津神社)・板倉、広 島県三原市沼田東町納所は、何れも幾つかの河川に挟まれた中州や河畔の小高い所、佐賀県東松浦郡肥前町納所(のうさ)・神田代・馬渡・晴気は小高い丘上の海岸縁にある。
狗奴国=狗[kug][kəu][kəu]・奴[nag][no(ndo)] [nu]。「倭人伝」成立期の上古音に拠ると、「クッナッ→カナ」、「記紀」成立期の中古音に拠ると、「カェウノ(カェウヌド)→ケウノ(ケウヌド)→ク ノ(クヌド)」となり、国=羅(ら)とすれば、クヌドラ(百済)と訓める。
防人=こうした事に関連するのか。福岡県の博多湾沿岸部福岡市西区生(いき)松原には壱岐 神社(祭神壱岐真根子)が在り、奴国の中枢とした佐賀県武雄市若木町川古・御所付近の伏尺(ふし)神社の伝承には、娘豊子の婿武内宿禰の身代わりで死んだ 壱岐直真根子の遺体を壱岐に運ぼうとしたが重すぎて、そこに葬ったとある。その南西には同市武内町亀の甲、同県杵島郡山内町犬走。その経緯は5世紀初頭 (履中期)創建された玄界灘に突き出る岬の突端にある福岡県宗像市鐘崎の式内名神大社織幡神社(壱岐真根子・武内宿禰・綿津見三神)に詳しいと云う。
技能集団=「魏志東夷伝」倭人が朝鮮半島南部で産する鉄に頼っていたと書き残す。壱岐 のカラカミ遺跡は、弥生中期後半(BC1世紀)から後期後半(AD2世紀頃)迄の300年間、その廃絶時期は「後漢書」が云う倭国大乱と重なる。北部九州 に鉄を供給し、長距離交易を行う中継基地として、朝鮮半島からの鉄素材が集配されたのか、複数の炉跡も確認された。屋内に炉を備え、工房の可能性が高い。 地面に穴を掘るのではなく、地上に炉を造る珍しい形態で、本土にはない。また、陰陽道では職神・式神(シキジン)の事を「みさき(御先)」とも称した。壱 州に来た陰陽師徒は「御先」を傭うのに簡単な方便よして、「やぼさ」と云う島に多く居る精霊を呪力で駆使する事。昔は、壱岐に矢保佐・矢乎佐等の社が大変 な数になる程あった。
 弥帆(やほ)=大船の舳先に張る小さな帆とあり、「倭人伝」航海の安全を祈願し、潔斎した持衰(じさい)と云う者を船の舳先(御先)に置いたとあり、矢 保佐(やぼさ)も同様の役目を担ったと考える。壱岐市芦辺町箱崎触の芳野家所蔵「神国愚童随筆」壱岐の神人の事とし、命婦(イチ)は女官長で大宮司・権大 宮司の妻か、娘がなり、斎(いつき→いっち)は陰陽師の妻が巫女になる。斎女(いつきめ→いっちめ)は、やぼさ社に常に参ると云う。
家系=例えば、茶道・華道等は家元や宗家と云われ、その家の技術や作法の知識等を一子 相伝して家系を守る。また、製鉄法や製陶技術にも秘伝があり、海民も、その海域に対する渡航技術や知識が彼等の糧となる。朝鮮の家父長制(宗家)に於ける 氏族(男系血族)の祖先発祥(本貫)の地名と姓と組み合わせて記し、他の氏族との区別を示す(例えば、安東金氏・慶州金氏)。韓国では現在も戸籍に記載す る。
支配者の伊都国=燕人の衛満が興した衛氏朝鮮が、秦の始皇帝に滅ぼされた後、その難を 逃れて渡来した王族や遊牧系の製鉄民等に比定した。彼等は列島での遊牧生活が難しかったので、漁民や耕作民を支配し、使役した。支配された奴国は、古朝鮮 の一つ殷王朝紂王の叔父箕子が、周武王に封ぜられて開いたとされる伝説上の箕子朝鮮(首都王倹城=平壌)。前195年頃、燕人の衛満に滅ぼされた後、難を 逃れて渡来した王族や青銅器制作者や畑作民等に比定した。 *論語「箕子、これを奴と為す」
 衛氏朝鮮(BC195頃~BC108)=古朝鮮の一つ。朝鮮北西部に逃れた燕人衛満の建国、都は王険城(平壌)。孫の右渠が漢の武帝に滅ぼされる。伊都国の支配者を、その難を避けて渡来した王族や貴族とした。男弟(年下の燕)が邪馬壹国女王を佐けたとある。

 燕(?~BC222)=中国古代、戦国七雄の一つ。始祖は周武王の弟召公奭。河北・東北南部・朝鮮北部を領し、薊(北京)に都、43世で秦の始皇帝に滅 ぼされる。4世紀初~5世紀初にかけて遊牧民の鮮卑(せんぴ)族慕容氏が建設した前燕・後燕・西燕・南燕・北燕等の国々(五胡十六国)。 






  1. 2016/02/14(日) 22:35:40|
  2. 5.思惑と意図
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◇狗奴(かっな)国

 ~次有奴国此女王境界所盡 其南有狗奴国男子為王、其官有狗古智卑狗 不屬女王国 自郡至女王国万二千餘里

 上記を読み下しすると、次ぎに奴国有り、これ女王領の境界が尽きる所、その南に有る男子を王(卑弥弓呼)とする狗奴国。その官に狗古智卑狗が有る。女王国に属さない。帯方郡より女王国に至る一万二千余里。 この「奴国」を道程記事に見える奴国とした。敵対する狗奴(かな)国との通字「奴」には何らかの関連が在り、それが故、最南端の前線で狗奴国に対する防人 (さきもり)を兼ねていたのは間違いないと思う。おそらく、邪馬壹国伊都国連合の南端、有明海沿岸の重要な泊津であり、最前線でもあったので、一大率の出 先機関が置かれたのは云うまでもない。
 尚、通説的な「奴国」の比定地は銅鏡が出土した福岡県春日市の須玖岡本遺跡付近とされるが、邪馬壹国傍国の好古都(ハカタ)国とした。また、奴国の泊津とした佐賀県小城市牛津町の東南、同県佐賀市東与賀町大字飯盛字二本榎付近の沖神社(大綿津見神/大鷦鷯尊)が祀られる。
 縄文後期から弥生前期に架けて南中国から南西諸島を経て渡来した海民と水耕稲作民が興した北部九州の委奴(わぬ→ゐぬ→いぬ)国連合国へ朝鮮半島経由で渡来した北方(畑作と遊牧)系の箕子朝鮮王族と関係者(邪馬壹国)や北方(騎馬)系の衛 氏朝鮮王族と関係者(伊都国)が覆い被さり、こうした国域の変遷が起こった。当初、狗奴国は「カナ・ラ)」と称したが、後代、半島が新羅(シルラ)に統一 されると、加羅(カルラ→キァロ)や百済(ペクチェ)の王族と、その関係者が難を逃れ、北部九州に渡来、狗奴国に取り入るが、新羅の父系統が、唐王朝の王 族李氏(李氏朝鮮)に追われて新羅(しらぎ)として北部九州に渡来、百済(カヌドラ→くだ ら)として九州南部、四国を経て近畿圏へと追われた。こうした国域の変遷に因るのか、筑紫平野西部の室見川流域には福岡市早良区干隈(ほしくま)・田隈 (たぐま)、同市城南区七隈(ななくま)等、奥まった入江や谷間等の地形を表す「~隅・~隈」は在るが、「ハキ」の近似地名は見えず、、福岡県福岡市博多 区金隈や同県筑紫郡那珂川町埋金(うめがね)等、カナ⇔カネと訓音が変わるので、西部の新羅(しらぎ)+中国漢音系と東部の百済(くだら)+中国呉音系に 別れて、対立した事に関係すると思う。
 女王卑弥呼の死後、その宗女壹與(伊豫)を奪われたのか、その勢力範囲は狗奴国に併合されて組み込まれたため、邪馬壹国伊都国連合の王族(臺與=豊)は「邪馬国」と国名を変えて東遷したと思われる。例えば、佐賀県伊万里市二里町金武(かなたけ)や、福岡県福岡市西区金武(かなたけ)・叶岳(かのうたけ)、同県福岡市早良区金武(かなたけ)、同市城南区金山(かなやま)、同県大野城市乙金(おとがな)、狗奴(かな)国の訓みに繋がると思しき地名が在り、その伊万里市二里町金武には弁財天(海人の市杵島姫=宗像大社中宮)を祀る金武(かなたけ)神社が在り、上記、沖神社に祀られる大綿津見神(狗奴国王)と弁財天(卑彌呼の宗女)には何らかの繋がりがある。 
 福岡県春日市付近の福岡市博多区馬出(まいだし)、同市東区箱崎も多々良川と宇美川河口付近の堆積地先端部、同市中央区舞鶴(まいづる)も同様の堆積地 で「場出(ばいづる・ばいだし)」と考えられる。また、福岡県朝倉市杷木(はき)町も河川(筑後川)が土砂を吐き出す事で、博多(はくぁた)、吐田・伯 太・伯方(はくた)や八田・発田(はった)、垢田・赤田(はくぁた→あかた)等も同源で、こうした堆積地で稲作が行われたと考える。(了)

好古都(ハカタ)国=那珂川と御笠川中流域の奥まった同県福岡市博多区月隈(つきぐま)付 近、同区の弥生期の稲作跡が発掘された板付遺跡、同期の共同墓地跡の同区金隈の金隈遺跡(かねのくま)、紀元前とされる銅剣の鋳型が出土した須久タカウタ 遺跡付近一帯とした。海民と耕作民の委奴(わぬ)国連合の京都(けいと)として良いと思う。
大綿津見神=沼名前(ぬなくま)神社「大綿津見命・須佐之男命」広島県福山市鞆町後地。神功皇后西国へ御下向時、この浦に船を寄せると海中より尺余の霊石を得ると神璽として斎場を設け、大綿津見命を祀り、海路安全と戦勝を祈る。田土浦坐(たつちのうらにまします)神社「大綿津見神」岡山県倉敷市下津井田之浦。大国玉神社の摂社宇留布津(うるふつ)神社「埴安姫命・大綿津見命」三重県松阪市六根町。海(あまの)神社「大綿津見命」兵庫県豊岡市小島字海ノ宮。二見興玉神社(猿田彦大神・宇迦御魂大神)三重県度会郡二見町大字江の摂社・龍宮社「竜宮大神・大綿津見神」。大国玉神社「大國御魂神 配大上御祖神・市杵嶋姫命・菅原道眞・早玉男命・須佐之男命」三重県松阪市六根町の摂社宇留布津神社「埴安姫命・大綿津見命」。大 海(おおわたつみ)神社「豐玉彦命・豐玉姫命」大阪市住吉区住吉。延喜式神名帳では「津守安人神」、安人神とは現人神で海人の信仰する塩筒老翁か、安曇磯 良、または、大綿津見命・玉依姫命、塩土老翁・豊玉姫命・彦火火出見尊。尚、大和岩雄氏は住吉大社創建前から鎮座していたとし、安曇氏の祀神を津守氏が担 い津守安人神となったとする。田裳見宿禰の領地を社地とし、後裔津守氏の氏神的存在だが、祭祀は安曇氏、管掌の津守氏は専ら住吉大社の祭祀に係わった。綿津見神社「大綿津見神・闇於加美神・玉依姫命・五十猛神」福島県相馬郡飯舘村草野字大宮内「陸奥(磐城)行方」。大神社(天照皇大御神・配豐受姫大神)の摂社西神社「天疎向津比賣命、大綿津見命、大屋比古命、火具土命」和歌山県田辺市芳養町。10猛島神社(五十猛神・大屋津姫神・抓津姫神)長崎県島原市宮町の配・譽田別命・大綿津見命・菅原道眞・猿田毘古命・多紀理比賣命・狹依比賣命(市寸嶋比賣命)・多紀津毘賣命・神速須佐能男命・大國主命他。11老津神社「正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命、配・多紀理毘賣命・市寸嶋比賣命・田寸津比賣命・須佐之男命・菅原道眞・大綿津見神」愛知県豊橋市老津町字宮脇(三河国渥美郡)等がある。
箕子朝鮮=古伝承では殷の紂王の暴虐を諫めたが用いられず、気違いを装い逃げたと云う叔父の胥余は殷王朝の滅亡後、周武王に朝鮮(箕)に封ぜられて、BC1600年頃、朝鮮半島の王険(平壌)に入り、箕子朝鮮を興す。尚、「論語」箕子を奴と為すとある。
衛氏朝鮮=秦始皇帝に滅ぼされた「燕」の人衛満が衛氏朝鮮(BC195頃~BC108)を 興した。漢の武帝に滅ぼされて、その出先機関(楽浪等四郡)に拠って支配される。そうした興亡の難を逃れた王族や高官の一部が、その度に北部九州へも渡来 したと推測され、そんな彼等と上手く繋がり共存、共栄する人々と反抗する人々に別れて争乱が起こる。
百済(くだら)=狗[kug][kəu][kəu]奴[nag][no(ndo)][nu]を「記紀」が成立した隋唐期の「中古音」に拠ると、「ケァノ(ケァヌド)→カノ(カヌド)国」。
対立=飯盛神社(福岡県福岡市西区飯盛)の上社=伊奘・玉依姫・誉田別命、中宮=五十猛命(素戔鳴尊)、下社=天太玉命(大山咋神)と、福岡平野を挟み東側、同県糟屋郡篠栗町大字若杉字石ヒシキの若杉山に坐す太祖神社(伊邪那尊)は、飯盛山(飯盛神社)と夫婦山として古代よりの国産み伝説の基となったと云う。この二系が夫婦になり、万世一系の天皇家、引いては単一民族の日本人と云う思想が生まれた。
狗奴(かな)国=他にも九州管内には、福岡県北九州市小倉北区金田(かなだ)、同県福岡市 城南区金山(かなやま)、同県甘木市金丸、同県行橋市金屋、同県鞍手郡若宮町金生(かなう)、同県鞍手郡若宮町金丸、同県田川郡金田町金田、佐賀県小城郡 三日月町金田、長崎県長崎市金屋町、同県南高来郡小浜町金浜・同郡国見町金山・宮田・里名、同県北高来郡高来町金崎(かなさき)名、同県諫早市金谷町、同 県東彼杵郡波佐見町金屋郷、熊本県荒尾市金山、大分県大分市金池町、同県中津市金屋、大分県宇佐市金丸・金屋、同県下毛郡耶馬溪町金吉(かなよし)、宮崎 県都城市金田(かなだ)町等、略全国に在るが、何故か、高知県・佐賀県・長崎県は「金(かね~)」は見えない。*兼
弁財天=旧来、インドの河神で、音楽・弁才・財福等を掌る女神。妙音天・美音天ともいう。 二臂(にひ)か、八臂。琵琶を持つ姿か、武器を持つ姿等で表される。後、学問・芸術の守護神となり、吉祥天と共にインドで最も尊崇された女神。日本では後 世、吉祥天と混同、福徳賦与の神として弁財天と称され、七福神の一つとして信仰される。弁財天は、安芸国一宮・厳島神社の宗像三女神の一人、市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと)と云われる。田心姫命(たごりひめのみこと)・湍津姫命(たぎつひめのみこと)を合祀する社殿は海辺に建つ。宝物類には平家寄 進のものが多く、大鳥居・朱塗の殿堂・五重塔・千畳閣・能舞台等、国宝・史跡に富む。他にも、大和の天川、近江竹生島、相模江ノ島、陸前金華山を併せて五 弁天と称す。






  1. 2016/02/19(金) 08:47:01|
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