見まごう邪馬台国

◇「~から」と「~より」

 岩元正昭氏は、次に以下の如く述べる。【漢籍解釈を難解なものにしている最たる原因は、嘗て平易に使っていた語法を現代人が知らない事である。これを前出の『魏志』東夷伝倭人条に載る「従と自」「至と到」「行と又」の三つのペアをモデルに実証してみよう。転注文字の用法原理に則り、使用される「從と自」「至と到」のツーペアの漢字について、上のツーペアの4字は「東夷伝倭人条」中の区間叙述に以下の様に載る。

 (1)從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
    郡から倭に至るには、郡より海岸に沿って水行、韓国内陸を南行きと東行きを繰り返しながら倭の北岸狗邪韓国に到る。この間七千餘里。
 (2)自郡至女王國萬二千餘里
    郡より女王國に至る。この間万二千餘里。


 論者は、上記の読み下しで、從(~から)と自(~より)と訓み別けているにも関わらず、その意味の違いすら解らないのだろうか。二つの文字は二点間の関係を示唆するとして間違いではないが、前者の「~から」は、「手綱を引き馬を駆る」「知人から本を借る」「鎌で稲を刈る」「弓矢で鹿を狩る」等と同源語で、手前側の起点から相手側の至点に対する動きとなる。
 一方、後者の「~より」は、「通説に拠る」「大雨に因る」「占いに依る」「本屋に寄る」等と同源語で、相手側の起点より手前側の至点に対する動きと云う違いで使い分けられる。詰まり、二つは、魏使や編者の立ち位置に対する意識の違いになる。

 【「從」と「自」の二字は共に二点間の空間距離の起点に伴う前置詞である。「~ヨリ」の意に用いられている。「至」と「到」の二字は共に終点地名の前に置かれる詞である。「~にイタル」の意に用いられている。漢字学的には各ペアの前の字と後のそれは本字と①転注字の関係にある。
 夫々、英語の「from~」「to~」に相当する。この項の着眼点は、何故、「from」の意味に「従と自」の二字を、「to」の意味に「至と到」の二字が強いて使い分けられているかという事である
。】
 
 例えば、江戸期の道標に「從是南(ここから南)~」とあれば、その旅人は北から来たと分かる。道標ではなく国境の場合、「自是南(これより南)~」とすれば、そこは南に居る人の領域になる。こうしたニュアンスの違いは、日本語にだけにあって、当時の漢語に使われる漢字には無かったとでも云うのか。

 【結論を先に述べると、それぞれの二字の関係に転注文字の用法を託し、(1)と(2)のルートが起点の郡を共有するものの別の方向に旅立ち、「至」字を前置詞とする女王國へのルートが本源的道程であり、「到」字を前置詞とする狗邪韓国へのルートが郡より派生的に伸びた脇道である事を端的に表現しているのである。

 上記、(1)と(2)を読み下すと以下の如くなる(丸括弧内の青字は筆者に拠る意訳)。

(1)(魏使の居る)帯方郡から倭に至る。(海民の水先案内に従い)半島西岸に循じ、韓國(の領域西沿岸)を歴て、南下後、東行し、倭の北岸狗邪韓國に到る。そこ迄、七千餘里
(2)帯方郡(と云う起点)より、(今、魏使の居る)女王国に至る萬二千餘里。

 (1)從郡~は、出発地の帯方郡衙から先に述べた倭の領域に至る迄の経路に従い、朝鮮半島西沿岸に循じ、韓國の西岸を歴て、最南部を廻り、東行し、外洋航海用船に乗り換えるための寄港地(目的地)、倭の領域北岸狗邪韓國に到る事、詰まり、郡から狗邪韓国への流れを述べる。
 一方、(2)自郡~は、郡より到着した魏使の居る女王国の所都へ至った道程と里程、その時間経過を含み、狗邪韓国からの五千餘里が南至邪馬壹国水行十日陸行一月に対応する。以下次回。

転注字=『説文解字』の「許叙」に六書の原理定義と挙例がある。
一に曰く「指事」は視て識すべく、察して意をみるべき。上、下是也(この字、上と下を表し、上の短い二の字が上、下の短い二字が下字を表す)。
二に曰く「象形」は描きて其の物と成り、体に随いて詰す。日月是也。
三に曰く「形聲」は事を以って名を為し、譬(たと)えを取り相成る。江河是也。
四に曰く「會意」は類を比し誼を合し、見を以って指撝す。武信是也。
五に曰く「転注」は類の一なる首を建て、同意相受く。考老是也
六に曰く「仮借」は本其の字無く、聲に依り事を託す。令長是也。

 以下、岩元正昭氏の説明。【許叙に「五曰転注」として転注文字用法の原理と挙例が以下の様にある。「転注者、建類一首、同意相受、考老是也」。「建類一首、 同意相受」部分が用法の原理を言い「考老是也」は挙例である。「老」字が、その本字であり、「考」は転注字である。読み方は、類、一首を建て、同意相受く。考老是なりとなる。「類」字は六書の會意文字の原理に「比類合誼」と既に使われている。義符として用いられている二つの漢字の義を比較して、その意味を組み合わせる事を言う。随って「類」とは字義そのものと見てよい事になる。随って「建類一首」とは義の一、同義なる首を建てる

 「考(こう)」「老(ろう)」は、部首の[土+ノ(おい)]に「丂」「匕」、「至(し)」「到(とう)」は、旁の[刂(立刀)]が付加される。「従」と「自」は何を共有し、何が付加されるのか。尚、広辞苑「転注」=或る漢字が持つ本来の語義を近似した語義に転用する事、通常、字音を変える。例えば、「わるい」意の悪(アク)を「憎む」の意として、字音「ヲ」にする類とある。

「~から」=現在から後に何らかの関係や関連が在る=今から先、「~より」=現在より前(原点)に関係や関連が在る今より前との違い。例えば、英語の[from]は、The train started from Nagoya..その列車は名古屋から(より)、出発した等、「~から」「~より」の何れにも使われるが、A few kilometers out of Paris. パリより離れること数キロ等に使われる「out of ~」=~の外に, ~より離れるが近いニュアンスを持ち、話者は、パリ近郊に居るか、当所に対して意識がある。

本屋に寄る=広辞苑「寄る」項、自然に寄せられる。引きつけられる。打ち寄せられる。とあり、自分の意志、本を見たい、買いたい等、本屋自体が持つ何かに因って引き寄せられるとして良く、意識が本屋に向かっている。

從是南=南下してきた四辻であれば、正面は、左「東至~」・中央「従是南~」・右「西至~」、石柱の右側面は、左「北至~」・中央「従是東~」・「南至~」、左側面は、左「北至~」・「従是西~」・「南至~」、後面には、左「西至~」・中央「従是北~」・「東至~」等と書き分けられる。

出発地=何れも郡衙だが、(2)自郡至~の場合、帶方(鼻祖)~狗邪韓国(二世)~末盧国(三世)~伊都国(四世)~不彌国(五世)~邪馬壹国(現世)等と郡衙から不彌国迄の行程が記述される。一方、從郡(の領域)至倭(の領域)~の場合、韓国を歴て狗邪韓国に到るとされ、その間の停泊地は省かれる。

時間経過=~次有奴國。此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。と云う記述を、作家の高木彬光氏だったか、「あぁ、遙々、来たものだ」等の感慨が感じられるとしていたが、達観だろう。


  1. 2017/12/08(金) 23:42:58|
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◇乍南乍東

 「思惑と意図」でも取り上げた北京大学医学部名誉顧問岩元正昭氏の「漢字解釈の方法論と、その解析技術による新たな歴史の発見(【】内)」の抜粋を見ながら「魏志東夷伝」の用法に就いて考えてみる。

 【「從」字の本義「随行也」の「行」字も同様に看做せばいい。「乍止」の「止」とは単に進む者が止まるという意ではなく、停泊する事を意味しており、stop stand 等ではなく、stayの義である。旅先で暫く宿泊する事である。随って、從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里という文には、歴韓國乍南乍東とあり、諸韓国を①歴(ふ)ると記されているのである

 当時の航海法を推測するに、沿岸航海や外洋航海でも潮汐や潮流を利用したもので、午前中の引き潮に乗って出港、暗礁等を避けて安全に航海できる水深の水道へ出ると、潮流等を上手く利用し、半日行程の距離感に拠る次の停泊地付近迄、水行後、満ち潮に乗り、港に近づき碇泊する。詰まり、狗邪韓国~末盧国迄の三区間の千餘里は、その半日行程の距離感と考えられる。
 斉明天皇の九州下向に際して詠った「万葉集」熟田津に船乗りせむと月待てば、潮も適いぬ、今は漕ぎ出でなは、大潮の時期や引き潮を待った古代の航海法で、当時の船旅では、そうした技術と海域の知識を熟知した海民を随行させ、それに従ったので、潮汐を待つため碇泊したり、何日も潮待ちする事も、態々、特筆せずとも、至極、当然の事、常識だったと思う。
 
 次に、以下の如く続けます。【「自」字の『説文解字』の扱いは次の通りである。「自」鼻也。象鼻形、鼻也。鼻の形を象る。段注は(1)王部に曰くとして「自」は読みて「鼻」の若くす。(2)今俗に始めて生まれる子を作るに「鼻子」と為す。(3)「自」字は「鼻」の古字であると言う。この三点から玉裁は許慎が「自」「鼻」の二字を同義と判断した事が分かる。しかし、ここで重要なのは「鼻」字が「始」字と通じている理由である。
 どの様に通じているかと言うと、古代中国では胎生動物は胎内で鼻から形成されると信じられていたからである。始めての子を「鼻子」と作り、始祖を鼻祖と作る。鼻と始の二字が同義であり、「自」字は「鼻」字の古体である事から、「自」字が始まると云う意に使用される至当性が立証される


 端(はし→はじ)は、物事の縁(へり)・際(きわ)で、始(はじめ)=端目は、事の始まり、起こり、端緒として、唐の始祖(高祖)李淵等とする。また、初(はつ)=発端は、人や物事の最初、起こり始め、初めてある事として、唐王朝の初代(高祖)李淵等とするので、何れも後続との繋がりに拘わらず単独でも使われる。
 一方、鼻(はな)と同訓には山や丘陵が海に突き出た岬(はな/御先)、茎や枝先に咲く花(はな)、一番(ハナ)、端(はな→はだ→はた)等があり、何らかの距離感や繋がりが意識される。
 詰まり、鼻子(鼻祖)は長子(始祖)・次子(二世)・三子(三世)等、自分に繋がる二人以上の兄弟や先祖が居る事を前提にしなければ、これは使われない。詰まり、相手(鼻祖)より手前へ意識の流れや、時系列があり、それが故、鼻を指さして自分を示唆する。

 魏使は郡に服属する沿岸航海民に従い半島沿岸に循い水行、韓国を歴て南下した後、東行すると到る倭人の領域北岸狗邪韓國は郡衙からの距離「七千餘里」とする。更に、そこから邪馬壹国側に服属する外洋航海民の船に乗り換え、その水先案内で北部九州の末盧国へ三千余里、上陸した後、邪馬壹国への道程を陸行(河川航行)して女王の都迄の二千里を経て、至った魏使の立ち位置として、編者陳寿は「郡~萬二千餘里」とする。以下次回。

歴(ふ)る=同訓で同義とされる「経る」は経由・経過等に使われる様に、直線的な連繋や因果を示唆する。一方、「歴る」は履歴・歴史・歴訪等、点々と繋いで行く事を示唆する。*「降る」=上から下に、「触る」=手等を伸ばして付ける、「振る」=手等を左右に動かす、「古い」=時を経る。

半日行程=私見では、午前中の航海(私説「1里=105m」に拠る最長100㎞強)で到着しない場合、夏期、日没前に満ち潮の起こる頃迄、交代要員を乗せて午前と午後とも航海した。沿岸航海でも外洋航海でも、船があればできるわけではなかったので、為政者は、そういった海民や河民を服属させ、支配する。

月待てば=その日の月の出を待ったと云うよりは、船出に都合の良い潮汐(こよみ)を待ったと思われる。
 小潮=月と太陽の起潮力が消し合い潮差が最小となる潮汐。月と太陽とが地球に対して互いに直角の方向に位置する上弦・下弦の頃に生ずる。
 大潮=月と太陽の起潮力が合わさり、潮差が最大となる潮汐。月と太陽が地球に対して一直線上に位置する満月と新月の頃に生じる。朔望潮。

始=最初、発端、第1、主、先き、前方、(接尾語的に)最初の経験、物事を始めた時、手始め。起こり、始まり、その年、それをする最初の日。物事の起りや開始を表し、「初」=一般に時に関して用い、最初や初期の段階の意で使う。*「終」 「末」

相手(鼻祖)より手前=自郡女王国~の場合、帯方郡衙の城壁を出て、朝鮮半島沿岸に循い韓国の沿岸部を歴て水行した後、狗邪韓国~對海国~一大国~末廬国迄の渡海、そこから伊都国~不彌国~女王の都する所に至る経由地の道程が示唆される。一方、「従郡至倭」の場合、停泊地等の示唆はない。

河川航行=大陸の大河川を沿岸航海するのと違い、当時の列島では、縦横に小河川が流れていたと考えられるので、そうした河川を航行する平底の船に大使や副使、魏帝の下賜品を載せ、従者が陸上の河岸から曳いて遡行した。水分峠は荷物を背負い、大使や副使は輿に乗せて越えた。


  1. 2017/11/30(木) 21:53:23|
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◇三国志の用法 「自~以~」

 前回、検証した事に順うと、「倭人伝」「自女王国以北~」は女王国を境として以北となり、女王国を含まないとした方が良い。そこで「三国志」の用法を比較検討してみる。

(1)自許以南吏民不安太祖以為憂(魏志九 曹操伝)
(2)詔曰昔紹之難(建安五年官渡の合戦)自許蔡以南人懐異心(魏志十八 和洽伝)
(3)聞羽(関羽)遣別将已在郟下自許以南擾擾(魏志二十六 滿龍伝) *龍+宀

 (1)(2)(3)は、何れも、200年、華北の魏国に対し、北より袁紹軍、南より劉備軍が挟み撃ちに攻めたて、許を首都とする魏の人民が恐怖した事を語り、当時、「自許以南」は、魏の版図であり、許は、その中心で含まれるとされる。
 何れも北と南から攻められる挟撃の状態になる。(1)孤立した首都、許の北側は袁紹の領域で、どうでも良かったのか。何れにしても城壁内の守りは、太祖の将兵で何とかなるのだろう。城壁南側の吏民とした方が良い。(2)態々、許と、蔡にする理由は、その二地域を除いた南側の人々の気持ちに異心があった。(3)前の二者からすれば、別将を派遣したが、既に挟撃の状態で、許は孤立、以南は酷く混乱している、と関羽は聞いた。

(4)自高柳以東濊貊以西鮮卑数十部(魏志二六 田豫伝)
(5)自雲中五原以東抵遼水皆為鮮卑庭(魏志三十 鮮卑伝) 

 (4)(5)は、北方騎馬民族鮮卑族のテリトリーを示し、書かれた地名は、その地方の根拠地名で含まれるとする。例えば、(4)高柳の以東が濊貊、以西が鮮卑族の領域だとすれば、この根拠地名が以東と以西の何れにも含まれる事になる。私見では、次項(6)「領」の嶺線を境に東西の斜面が夫々に属すのではなく、高柳を境に以東は濊貊、高柳を含めて以西鮮卑族の領域と考える。
 (5)自雲中五原を含め、以東より遼水迄の鮮卑領とするが、現在、内蒙古自治区の五原は、漢代の郡名とあり、郡の領域になる。遊牧民には領土や境界と云う意識は殆どないので、「庭=放牧地」とする。家畜の水場として遼水の手前岸迄になる。

(6)自単単大山領以西屬楽浪自領以東七県都尉主之(魏志三一 濊伝)

 朝鮮半島北部の狼林山脈の嶺線に拠って行政区分し、西は楽浪郡、東は東部都尉(漢代の武官)の管掌する中国古制度で、単単大山領の「領」は嶺線で両者に含まれるとするが、領(稜線)を境界線とすれば、夫々、山の斜面も領域にしたか、西王母や仙人等が住む異界とも考えられる。

(7)自隴以西可断而有也(蜀志十四 姜維伝)。

 蜀は西方異民族と同盟して魏の攻撃を計画、自隴以西は異民族の領域を語り、主要都市とするが、資料に拠ると、隴(ろう)は甘粛省の別称、「秦」の地、明代迄、陝西省に含まれた。隴関を挟んで隴西(隴左)と隴東(隴右)が在り、黄土高原西縁で、地形的な断崖や民族的な断絶になる。

(8)自江以南(呉志一七 胡綜伝)

 「自江以南」とは揚子江より南、呉の領域を示す。当時、長江の制水権は呉にあり、北の河岸域も領土とするが、制水権を有していた河川航行を生業とする人々が服属したのだろうから、(6)と同様の緩衝帯として良い。

 纏めると、(1)~(3)南北からの挟撃状態で、孤立した「許」は含まれない。(4)高柳を含まない自~以東の濊貊と、含む以西の鮮卑、(5)自雲中五原を含まない以東から遼水岸迄の鮮卑庭。(7)隴関を含まない隴西側の断崖や断絶を境界に隴関を含む隴東。(8)揚子江自体は緩衝帯になる。
 詰まり、從郡至倭=郡衙に居る郡使や魏使から見た倭の領域というニュアンスになる。一方、自郡至女王国=魏使の居る女王の都する所より、郡衙に向けて、その距離感と時間経過を含めて述べる。

魏=三国時代の国名。後漢の末、198年曹操が献帝を奉じて天下の実権を握って魏王となり、その子丕(ひ)に至って帝位についた。都は洛陽、江北を領有。5世で晋に禅る。曹魏(220~265)。

袁紹=後漢末、河南汝陽(河南省汝南県の都市)の人。霊帝の死後、宦官を皆殺しにしたが、董卓に冀州へ追われ、後、反董卓派の盟主となる。やがて曹操と対立し、200年河南の官渡で大敗(?~202)。

許=春秋時代の国名。BC504年、鄭に滅ぼされた。河南省許昌付近とある。

蔡=周代の国名。都は「蔡」河南省上蔡県の南西。武王の同母弟叔度の封ぜられた国。BC531年、一度、楚に滅ぼされた。復興後を新蔡といい、それ以前を上蔡という。更に、BC493年、都を州来(安徽省鳳台県)に遷した後を下蔡という。楚の恵王に滅ぼされた。

鮮卑=古代アジアのモンゴル系(トルコ系とも)に属する遊牧民族。中国戦国時代から興安嶺の東に拠った。2世紀中葉、遼東から内外モンゴルを含んで大統一したが、三国時代、慕容・宇文・拓跋(たくばつ)等の集団に分裂。晋代に、前燕・後燕・西秦・南涼・南燕の国を建て、拓跋氏は南北朝時代に北魏を建てた。

領=単単大山領より以西は樂浪郡に属し、領より以東七県は都尉、この主となる。その後、皆以濊為民。後省都尉、封其渠帥為侯、今不耐濊皆其種也。漢末更屬句麗。と在る。地図資料に拠ると、単単大山(大嶺)とは朝鮮半島基部東北の白(ベク)山付近を発し、南へ日本海沿岸を走り、金剛山・五台山・太白山等、釜山付近に至る。東側半島基部の江原道元山市が東部都尉の官府とされ、山脈東側に殆ど平地はないので、山脈自体は、都尉に属す濊貊の領域と考えられる。
 玄菟郡の管轄地域も楽浪郡に吸収した事で、以降は「大楽浪郡」と呼ばれる。また、領東に東部都尉を配し、濊貊の都城である不耐城(江原道元山市)に治所を置いて七県を統治させる事にしたとある。

隴=中国の地名。甘粛省(かんしゅくしょう)南東部をいう。甘粛省の別称。「隴を得て蜀(しょく)を望む」=後漢書(岑彭伝)、人足るを知らざるに苦しむ、既に隴を平げて復た蜀を望む。一つの望みが達せられると、更に、その上が望まれること。欲望にきりがないことのたとえ。望蜀
 甘粛=中国北西部の省。省都は蘭州。明代迄、陝西省に属したが、清初に分離。古来、天山南北路に連なる東西交通路に当たり、西域文化が栄えた。
 陝西=中国北西部の黄土高原にある省。東は黄河、北は「長城」を境とし、中央部には渭河平原が拡がる。別称、秦・関中。省都は西安とある。
 驪山=中国陝西省西安市臨潼区南東郊にある山。古来、西北麓の温泉で名高く、秦の始皇帝は瘡(そう)を治療し、彼の御陵とされる兵馬俑が発掘された。唐の玄宗は華清宮で楊貴妃に浴せしめた等とあり、当時、隴が西方異民族の域内だったとは云えない。

長江の制水権=赤壁の戦いは、三国時代、孫権・劉備の連合軍と曹操の軍との戦い(208年)。呉の部将黄蓋(荊州零陵郡泉陵県)の計により、曹操の兵船や陣営を焼き払い勝利を占め、江南の大部分は孫権に、劉備は巴蜀(四川省)を得て、天下三分の形勢が生ずる基となったとされる。
 荊州=今の中国湖北省・湖南省の大部分。湖北省中部の都市。沙市区と荊州区からなる。長江水運・南北交通の要地。江陵(Jiangling)=中国湖北省中部の地名。楚の文化の中心地。古来軍事上の要地。楚・梁・荊南等の都。荊都。今は荊州市に属する。 湖北(Hubei)=中国中部の省。長江の中流域に位置する。省都は武漢。別称・鄂(がく)・楚北。春秋戦国時代の楚の地。長江流域の内陸地域では最も早く近代工業が発展した。



  1. 2017/11/24(金) 11:09:26|
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◇自女王国以北

 通説的に「倭人伝」自女王國以北~は、女王国を含めた以北とされるが、「東京以北」と云う語句には、東京を含む、いや、含まないと、夫々の捉え方がある。例えば、広辞苑には、「以外」=距離や時間、数量等、それを除く・その他、或る範囲より外側。「以内」=同様に、それを含み、それより内側それより少ない範囲。 「以上」=程度・数量等、それより多い、優れている。「以下」=同様に、それより少ない、劣っている。また、「以北」=その地点から通常、その地点を含む。と在る。
 以(もち)は、本来、基準を持ち、保つ境界線と云う語義でしかなかったが、法律・数学の用語では曖昧さを避けるため、基準を含むとされた「A以上」「B以下」等に順い「自女王国以北」も女王国を含んだ北側として認識されたと考える。
 では、「倭人伝」の編者陳寿は、何故、「女王国以北~」とせず、「自」を付したのか。そこで「従(から)~」「自(より)~」として比較検討してみたい。

 「これから先(さき)~」は、物理的な距離感や時系列的な因果関係や過去の経緯に拘わらず、「これ」を境に、今、この時点に於ける関係性や、示唆された地点や時点からと云うニュアンスで、「これ」を含めた前方の事、今から先=今後の事として述べる。
 これを、「これより先(さき)~」にすると、物理的な距離感の「先」と「後」や、時系列的に過去の経緯により、これら因果関係を含めてと云うニュアンスで、「これ」を境にした前方は~、今後は、と述べる。

 「これから前(まへ)~」は、物理的な前後の情報や状態、時系列的な前後の経緯や因果関係に拘わらず、時刻表・氏名表や資料等、「これ」から物体の前方、前段の情報や状態等を述べる。
 これを、「これより前(まへ)~」にすると、物理的な前後の情報や状態、時系列的な前後の経緯を示唆する「これ」を境に、時刻表・氏名表や資料等、これより後に対して、「前」と云うニュアンスで前後の因果関係を含めて述べる。

 上記を考え併せると、「これから先」「これから前」に於ける話者の立ち位置や、その意識は「後(あと・うしろ)」ではなく、「これから先」「これから前」の部分や領域に在るが、「これより先」「これより前」の場合、その「後」の部分や領域に在ると云う違いになる。これを「これから後」「これより後」としても、同様の対応関係になる。序でに以下の如き語句を、述べてきた事に順い比較検討してみる。

 「これから上」「これから下」は「これ以上」と「これ以下」と同様、「これ」を含んだ上側や下側の部分や領域を示唆する。これを「これより上」「これより下」にすると、氏名表や資料等の領域を区画する境「これ」を含めない上側・下側と云うニュアンスになる。
 また、「ここから内」「ここから外」も、「これ以内」「これ以外」と同様、ここを含んだ内側や外側になる。一方、「ここより内」「ここより外」とした場合、家の壁や間仕切りの襖、河川や山脈等、緩衝帯や境界と認識される「ここ」の手前を起点とする内側、向かいの外側と云うニュアンスと考えられる。

 上記、「女王国以北(女王国から以北)」は、「これ以上」や「これ以下」に順うと、女王国を含む北側になる。これを「自女王国以北」にして、述べてきた事に順うと、女王国より以北=女王国を境にして北側の道程の記述で道里と戸数を略載した国々になり、女王国は含まれない。
 これを「自女王国以南(女王国より南側)」にすると、女王国の領域を含まない南側、狗奴国になり、「女王国以北(女王から以北)」は、女王国迄に到る道程を示唆する。余の傍国は、その東西に広がって在る。

自女王國以北=同語句で始まる「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」=女王国より以北、一大率を特置、諸国を検察する。諸国、これ恐れ憚る。(郡使が往来するので)伊都国を常治す。我が国中に於て有る刺史の如き。と云う文章でも、女王国を含むのか。この一大率は、誰が特置したのか。女王国以北に在る伊都国として、女王国を含み、その役人や武人が検察するのであれば、女王国以北とした意味はない。

以(もち)=漢和字典に拠ると、已(すでに)と同源の耜の形象で、右を向く「已」、左を向く「以」とある。耕作地を耜で剥き、残った筋が左右に分ける事になり、筋が一つの線とすれば、「境」、区画とすれば、「界」となる。また、「厶」も耜の形象とされ、「私」や「公」に使われるので、これは区別すると云う意味になる。

女王国=以前、(3)方向の感覚の「大きな領域」で、帶方東南の倭人の領域中、海民が持つ海上の領域を東側「東渡海千余里復国有皆倭種」と邪馬壹国連合に属す南側(瀚海)、それとは別に東南方面の内陸に住む倭の耕作民等が持つ領域も二つに分け、南側に含まれる倭地を併せた領域としたが、その都となる首長の国を女王国と称したと考える。邪馬壹国は、その筆頭の国であり、その領域全体を壹(集合体)として表す。ここで訂正します。

自(より)=従(から)は、本を借る。稲を刈る。猪を狩る。手綱を引いて馬を駆る等と同源で、対象を手前に引く→対象に意識を向ける。一方、自(より)は、本屋に寄る。資金の援助に頼る。基本に拠る・地震に因る。雨天に由る等と同源で、対象から手前に対する動き→対象に意識が向かう。
 枯(かる→くる)は、水気(生気)が抜けて軽くなり、土に還り、新たに芽吹く事=繰り返す事、輪廻転生に繋がるのか。「より分ける」は良いものと悪いものに拠り、選別し、一方に寄せる事だが、選(より→える=ィエル)=得るともされる。

緩衝帯=何れにも属さない山脈や河川を境界にした場合で、大韓民国と朝鮮人民共和国の38度線にある軍事境界の様に、別の区画を挟み区画される。

  1. 2017/11/17(金) 08:45:00|
  2. 5.漢字の用法
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◇山城

何度も述べてきたが、漢王朝が滅び、魏・呉・蜀の群雄割拠の時代に入り、その勢力図が変化すると、再起を期して南下していた狗奴国に女王卑弥呼の宗女とされる「壹與」が靡き、連合した邪馬国の攻勢に邪馬国伊都国連合の女王卑彌呼は亡くなる。その一部は国勢を立て直そうと、当初、男子の王を即てたが、国中が服従せず、女王卑弥呼の宗女臺與を戴き、九州東北部や日本海沿岸の山陰地方、石見や出雲方面へ逃れる。それを示唆する様に古代山城(神籠石?)の遺跡や、「轟」や「百々」の地名がある。
 下図は、その位置関係を地図上に示したもので、順に西側の石城山城から、夫々の地域に見える地名や地形的な状況を述べてみたい。
神籠石1 
石城山城は、山口県熊毛郡(現光市)大和町塩田の瀬戸内海を望む石城(いはき)山にある。付近には同町立野(たての)・三輪、同郡熊毛町太刀野、同県光市立野(たての)・鮎帰、同県玖珂郡(現岩国市)美和町瀬戸ノ内、同県下松市瀬戸、同県徳山市(現周防市)久米・播磨等が見える。
 山上に鎮座する石城神社(大山祇神 配 雷神、高龗神)境内にあり、神籠石か、朝鮮式山城かは意見が分かれる。ただ、轟(木)や道目木等が地名が付帯するのであれば、山口県玖珂郡(岩国市)玖珂町と同県岩国市境、廿木山は、轟(とどろ)木→十十呂(ととろ)木→二十(はたづ→はたぬ)木→廿木(はたのき)と転音し、表記されたのかも知れない。
 永納山城は、愛媛県東予市(現西条市)河原津山手の世田山東側の小丘陵に在る六軒家だとすれば、燧灘(ひうちなだ)や来島海峡を見渡せる位置にある。愛媛県東予市高田(たかた)・大野、同県今治市国分(59番札所国分寺)・蒼社(そうしゃ)町・五軒屋・桜井(綱敷天満神社)・別宮(べっく)町、同県越智郡(現今治市)朝倉村朝倉上字、さやの峠皇子神社/大雀命・軽大女娘)がある。
 讃岐山城は香川県坂出市西庄町・別宮の南側の城山や、西北側の金山等の東北斜面に在るとすれば、麓を流れる綾川と瀬戸内海を見張る位置どりにある。付近には林田町・総社久米町等が見える。また、東側には同県綾歌郡国分寺町国分(80番札所讃岐国分寺)

 鬼ヶ城は、岡山県総社市奥坂・久米・福井・三輪高田五軒屋阿曽阿曽神社)・新山(鬼の釜)、足守川を望む。次の大廻小廻山城とも関わり、岡山県岡山市吉備津の吉備津神社(大吉備津彦命)周辺には、桃太郎伝説に繋がる温羅遺跡がある。
 その社伝に拠ると、第11代垂仁天皇の御代、身の丈4㍍を超える鬼神の温羅が乱暴を働いたので、祭神の吉備津彦が派遣されて討ち取り、首を御釜殿の下、約2.6㍍の地中に埋めたとされる。

 大廻小廻山城は、山頂から東に吉井川、北西に砂川、岡山県赤磐郡山陽町阿部の吉備国分寺跡、同郡熊山町奥吉原(熊山)の石積遺構を望む。同県赤磐郡(現岡山市)瀬戸町金山、同郡吉井町高田・塩田、同県岡山市草ケ部・久米・納所・鮎帰・牟佐(高倉神社)が在る。
 吉備津神社は中山西麓に北向きに鎮座、創建年代は不詳だが、祭神の五世孫で、社務家の加夜臣奈留美命が茅葺宮跡に祖神を祀るとある。亦名の御友別命は応神紀(誉田別尊)で服属儀礼を執り、その兄弟や子が吉備国を治める。
 尚、 『日本書紀』に拠ると、吉備津彦命は西海道に派遣された四道将軍の比古伊佐勢理比古命(孝霊の皇子)とされる。

 播磨山城は、兵庫県揖保郡(現たつの市)新宮町馬立(山神社/大山祇神)・佐野・北村(建速神社/須佐之男命)、東に揖保川と支流の栗栖川を見下ろす亀山にある。他にも同郡太子町阿曽林田川)・天満山・王子(王子神社/彦寤眞命)、同県龍野市龍野町四箇(しか)・誉田町がある。(了)

蒼社町=宗社(そうしゃ)とすれば、宗廟(そうびょう)と社稷(しゃしょく)。転じて「国家」の意。愛媛県今治市国分(59番札所国分寺)・蒼社(そうしゃ)町。同県坂出市林田総社の東側、同県綾歌郡国分寺町国分には讃岐国分尼寺跡(80番札所讃岐国分寺)がある。岡山県総社(そうじゃ)市=岡山市西方の市。元備中国府・国分寺・総社が置かれ、吉備文化の中心地とある。

皇子神社=祭神「大雀命・軽大女娘」 愛媛県西条市実報寺字皇子ヶ森甲982 
  第16代仁徳天皇と、松山市姫原で心中した軽大女娘。四之宮祖小千孝元が勧請したとも、文中2(1373)年、伊予守河野通定が伊予に勧請したのを分祀したとも伝える。その時、勧請したのは熊野権現の子神とされる。熊野三所権現=熊野三社の主祭神として祀られる本宮の家都御子神(けつみこのかみ)、新宮の熊野速玉神、那智の夫須美(ふすみ)神の三所、熊野(ゆや)権現。
 越智家の祀る境内社岩木神社は、武内宿禰の子葛城襲津彦の娘で、仁徳天皇の皇后「石之姫命」、こちらは安産・疫病避けの神として信仰される。その神徳からすれば、木花咲耶姫姫や磐長姫を祀っているか。社の前に掲げられた小さな旗には伊和姫神社とある。
 尚、福岡県北九州市門司区瀬戸町(和布刈神社)・鳴竹・田野浦(太刀浦)から大積へ抜けるサヤ峠とある。

阿曽神社=阿宗神社(応神天皇、神功皇后、玉依姫尊、吉備武彦命)。総社市奥坂には、桃太郎に退治された鬼のモデル温羅(うら)の妻、阿曽郷の祝(はふり)の娘、阿曽媛の出生地で、阿曽郷一帯からは、古代製鉄跡が多数発掘された。また、吉備津神社の鳴釜神事に使用する釜は、当地の鋳物師に拠るものと定められている。吉備の国魂神は岩山社に祭られている建日方別命で、この神は肥国や熊曽の建日を冠にしている神々に通じる。
 藩主の木下公が、旧阿曽村・東阿曽に鎮座していた旧宮原社(吉備武彦命)と旧八幡神社を合祀した後、阿宗神社と改称した。尚、長野県上田市古安曽にも阿曽神社があり、その直ぐ北の生嶋足嶋神社は大地(五行中央の土気)を祀る。
 *阿曽(あ・添)ふ→遊ぶ=日常から心身を解放し、別天地に身を委ねる。生業を持たずにぶらぶら暮らす。暇でいる。

吉備津彦神社=配祀 日子刺方別命、倭飛羽矢若屋比賣命、千千速比賣命、大倭迹迹日百襲比賣命、御友別命、若日子建吉備津彦命、中津彦命、日子寤間命等。吉備津造の本殿が名高い。備中一宮、延喜式大社で吉備津彦神社の名前である。
 吉備津神社(奈良県山辺郡山添村西波多・下津)社頭掲示板に、当社の御神体は境内山腹の巨岩(高さ6m、幅10m)であり、古代人が崇拝した神が降臨し給う磐座信仰を、そのまま継承し、今日に及び、その起源は極めて古い。

 『新撰姓氏録』吉備臣、稚武彦命の孫、御友別命の後なりとあり、吉備は王権との関わり多い。

 神武東遷中、高島宮に三年間滞在(「記」八年)
 崇神天皇は四道将軍を派遣。
 成務天皇は和珥部比古汝茅に吉備と播磨国境を定めさせる。
 日本武尊は吉備の穴海で悪ぶる神を討伐、吉備武彦が東国遠征に共す。 
 仁徳天皇は黒日売を追い吉備に御幸。
 雄略天皇は吉備下道臣前津屋を誅殺 吉備臣小梨を新羅救済に派遣。新羅討伐将軍、紀小弓に吉備上道釆女大海を賜う。
 清寧天皇前紀に吉備稚媛の子星川皇子らが反し、焼殺さる。吉備上道臣らが救援に向かうが間に合わず。

温羅(うら)遺跡=温羅と云う鬼退治の話がルーツ。吉備津神社の北西10㌔、国指定史跡の鬼城山(397㍍)の頂上付近に鬼ノ城と呼ばれる遺跡があり、温羅の根城と伝わるが、築城は675年頃で、百済救援を試みた大和朝廷は、白村江戦(663年)で大敗、唐と新羅勢力の侵攻に備えたと云われる。尚、祭神吉備津彦は、「紀」五十狭芹彦命で桃太郎のモデルとされる。
 吉備津神社には鳴釜神事と云う不思議な儀式が伝わる。真っ黒に煤けた社殿にブオオオン、ブオオオンと云う音が鳴り響く。桃太郎に討ち取られた鬼の首があげる唸り声とされる。神社の御釜殿で米を蒸すと、自ずと釜が鳴り、その音色で吉凶を占う。
 阿曽女と呼ばれる巫女等が釜で湯を沸かし、火を払った後に湯気の立ち上る蒸篭上で、生玄米を蒸すような仕草を行う。玄米を入れた容器を振り、神官の唱える祝詞が終わる頃、蒸篭を奥に向けてぐっと差し込むと、程なく、ブオオオン蒸篭が唸り出す。

彦寤眞命=王子神社(兵庫県揖保郡太子町王子)、由緒不明。2号線バイパスの王子トンネルの馬山(174m)中腹に鎮座。「記」日子寤間命は孝霊天皇の御子、吉備下道臣の若日子建吉備津日子命の同母(蝿伊呂杼)兄弟。『播磨国風土記』大田里の条、播磨大田の地名は、昔、呉勝(くれのまさる)が韓国から渡来、初めに紀伊国名草郡大田村に至り、一部が摂津国三嶋の賀美郡、更に揖保郡大田村に移った。
 紀伊国名草郡大田村とは、日前国縣神宮の鎮座地付近で、和歌山の農耕地帯として早くから開発され、大田黒田遺跡は長期に渡り、繁栄した。摂津国三嶋の賀美郡(大阪府茨木市北部)に太田に太田神社が鎮座。此処より真西に行くと播磨国揖保郡大田となる。
 『朝日の直刺す国、夕日の日照る国(池田潤著)』によれば、この東西線上の東から山城の水主坐天照御魂神社、摂津の新屋坐天照御魂神社、揖保の粒坐天照神社が鎮座、天照と同義とされる日前(ひのくま)を持つ日前国縣神宮の神格をも示しているのかとある。

 黒岡神社(兵庫県揖保郡太子町太田) 祭神 應神天皇 配祀 藤原貞國・菅原道眞
 ○應神天皇についての由緒
 神功皇后が三韓を征伐の御還行の御時、香坂(かごさか)・忍熊の二皇子が東国の兵をくりだして皇軍を拒ぐ。皇后は、淡路の海峽の萩原の浦(今の揖保村内)に御上陸せられ、岡に登り、兵を集め、評議。その縁で八幡宮を祭祀する黒岡と称す。
 ○藤原貞国についての由緒
 天平寶字八甲辰(764)年、新羅の軍艦二万餘艘、当国に攻め入り、鐵の楯を射通す大弓力のある名人、藤原貞国に朝庭より将軍の宣下あり、的(いくは)の姓を賜い、近国の官兵を率い防戦のため福井庄(現旭陽村)から進発する。この時、天津神を黒岡山(黒岡明神)に勧請し、異賊退散を祈誓すると、俄に大風が起り、七百三十二艘、ひっくり反り、悉く退治。異賊大将の頚を斬り、朝廷に奉る。その功で播磨西五郡(揖保郡・飾磨郡・赤穂郡・佐用郡・宍粟郡)を恩賜される。貞国の古墳とされる神社境内の巽方、藤原山、直径15m、高さ5.3m、横穴式石室内部には高砂の竜山石の組合せ式石棺が納まる。
 ○菅原道真についての由緒
 筑紫へ左遷され、風波の障りで、飾磨郡廣畑郷、高濱の汀に御船を碇泊、四、五日、滞留、黒岡八幡宮へ参詣せられる。一泊した櫻井家に御染筆の和歌、はぎ山の御歌二首を賜う。御別を悲しみ、御記念を願うと、御自作の木像を賜い、御祀る。その霊験の灼なるので、嘉吉三年九月八日飾磨郡英賀保村へ御分霊する。

 若王子神社(兵庫県揖保郡太子町上太田)  祭神 仁徳天皇 秋祭(10月9日)、由緒 京都の吉田神道の影響下にあり、後白河法王が京都東山から熊野権現を勧請した若王子神社が、当地に勧請された。


  1. 2017/11/12(日) 13:58:31|
  2. 8.神籠石
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◇邪馬壹國の東遷

 陳寿偏「三国志」の成立後、百年以上を経た南朝「宋」の范曄(398~445)が撰した二十四史の一つ「後漢書(本紀10巻・列伝80巻)」には以下の如くある。

 倭在韓東南大海中依山島為居凡百余國。自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國、國皆稱王世世傳統。其大倭王居邪馬國。樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里

 上記の後半部を読み下すと、大倭王の居る邪馬臺国は楽浪郡からもとめるに去ること一万二千里、その国の西北界である拘邪韓國迄の距離は郡から去ること七千餘里。この邪馬國と「魏使志東夷伝」その北岸狗邪韓國とされる邪馬國は同国だろうか。
 おそらく、「後漢書」が成立した432年頃には、卑彌呼の宗女壹與が狗奴國に靡き、邪馬国と国称を変えて領域を拡げたため、同宗女臺與を戴く、邪馬壹国伊都国連合が、北部九州東側や日本海沿岸部に追われ、邪馬国の位置は拘邪韓國の東南方面と云う認識と推測される。

 北部九州に分布する百済式山城は、山口県下関市長府四王司(しおうじ)付近の長門城、福岡県北九州市門司区庄司(しょうじ)町・稲積町・城山町の稲積城、同県糟屋郡宇美町四王寺付近の大野城、同県飯塚市庄司(しょうじ)・津島・同県田川郡金田町金田の金田城(鹿毛馬神籠石)等、小路(しょうじ)と云う地名とも関連すると考える。
 鹿児島川内市大小路(おおしょうじ)町、宮崎県延岡市本小路(ほんこうじ)・天神小路桜小路小路鹿小路(かしょうじ)、大分県別府市船小路町、熊本県下益城郡中央町中小路(なかしょうじ)、同県宇土市新小路町・石小路町、同県八代市岡町小路(しょうじ)、長崎県大村市宮小路(みやしょうじ)、同県諫早市小路町、佐賀県唐津市大名小路、同県小城市小城町小路、同県佐賀市緑小路八幡小路中ノ小路

 例えば、熊本県鹿本郡(現山鹿市)菊鹿町米原字長者原東北側、八方ヶ岳南西中腹に在る鞠智城は、広く有明海や島原湾を見渡せる。但し、白村江戦の大敗後、造った山城中には見えないが、略30年後、「続日本紀」文武2(698)年、大野城と椽(基肄)城、鞠智城の修築記事が在る。これが傷み壊れた箇所の修築か、防御力の向上を目的としたのかは判らないが、3㌔程北側、同町上永野字小路(不詳)、南西側に同県鹿本郡植木町轟が見える。
 遺跡から百済式仏像が発見されて、その成立の経緯を裏付けたとするが、古墳の遺物と同様、伝世できる遺物の製作年代を古墳や遺跡の年代設定の根拠にするのは危険と思う。
 ただ、百済が仏教伝来に関わったとされる事から仏教に帰依していた可能性を否定できず、中大兄皇子(天智)が百済救援のために兵を送ったが大敗し、滅亡した百済(くだら)からの亡命貴族が建造に関わったとする事と整合する。

 例えば、辰韓を統一した新羅に伽倻(加羅)諸国や百済が滅ぼされたので、6世紀以降、その王族や官僚の多くが渡来、北部九州の国々に大きな影響を及ぼしたの確かで、その中、狗奴国卑彌弓呼と卑弥呼の宗女壹與(いよ)系統に権力闘争が起こったのか、狗奴国(百済)系も遅れて東遷したと考える。

  そうした経緯に関係するのか、和歌山県は全て「ショウジ」、大阪府泉南市中小路(なこうじ)や、奈良県奈良市林小路(はやしこうじ)以外は「ショウジ」で、一方、京都府八幡市戸津小路(とうづしょうじ゙)以外は「コウジ」とされる。
 また、投馬国連合の領域とした長崎県大村市小路口(おろぐち)町、広島県豊田郡安浦町中畑立小路(おろ)、兵庫県洲本市小路谷(おろだに)や、同県養父郡関宮町小路頃(おじころ)とある。*「ショウジ」「コウジ(赤字)」の分布図。
小路 
小路=高知県中村市羽生小路(はぶしょうじ)、徳島県麻植郡山川町小路(しょうじ)、愛媛県北宇和郡吉田町小路、同県八幡浜市花小路、同県宇和島市広小路、山口県山口市銭湯小路(しょうじ)・諸願小路(しょがんしょうじ)・久保小路・竪小路、同県宇部市大小路(おおしょうじ)、同県下関市長府古江小路町、島根県隠岐郡五箇村小路、鳥取県西伯郡西伯町猪小路、、和歌山県和歌山市蔵小路(くらしょうじ)・楠右衛門小路・岡織屋小路・市小路(いちしょうじ)、奈良県吉野郡下市町小路、同県天理市小路町、同県奈良市林小路(こうじ)町、大阪府泉南市中小路(なこうじ)、同府東大阪市横小路(しょうじ)町、同府門真市小路町、同府箕面市西小路、同府寝屋川市小路、同府岸和田市春木大小路町、大阪府大阪市旭区森小路・生野区小路東、京都府府八幡市戸津(とうづ゙)小路、同府綾部市広小路、同府京都市山科区大宅中小路町・山科区安朱中小路町、南区西九条南小路町・西九条針小路町、下京区東塩小路町・綾小路町、梅小路石橋町、油小路町、東山区東姉小路町・今小路町

鞠智城=昭和42(1967)年より、発掘調査が行われて、韓国のソウル付近に在る二聖山城跡に類似の遺構とされる当時としては珍しい八角形建物を始め、72棟の建物基礎が確認されている。但し、当時、ソウル付近は百済の領域ではなかった。

新羅=統一後、唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮半島を統一した後、唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。中国から取り入れた儒教・仏教・律令制等を独自に発展させ、日本への文化的・社会的影響大(356~935)。

投馬国=長崎県大村市西、同県西彼杵郡時津(とぎつ)町の南、同郡香焼町丹馬があり、沿岸航海を担う海民の彼等が、こうした東遷に関わったのだろうが、他に余り見られないので、この地名を負った人々が、瀬戸内海の山陽沿岸部を東遷したとされる神武東遷に関わったのかも知れない。*馬=海
 「神武東遷記」八年を過ごした吉備高島宮より、上り進んだ時、速吸門で亀の甲羅に乗り、釣りをしつつ袖を振りながら来る人と出遭い、「お前は誰か」と尋ねると、「僕は国神です」、「おまえは海路を知っているか」と尋ねると、「よく知っています」、「仕えるか」と尋ねると、「お仕えしましょう」と応えた。そこで棹を差し渡してその御船に引き入れ、名を与えて槁根津日子(さをねつひこ)と名付けた。これは倭国造等の祖である。


  1. 2017/11/02(木) 20:28:50|
  2. 8.神籠石
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◇宮地岳

 倭地「末盧国」比定地の西側、長崎県北松浦郡高島町阿翁免宮地岳(猿田彦神社→宮地岳神社)、福岡県前原市の雷山神籠石北側、同市神在の宮地岳東側、同市高祖に宮地嶽神社がある。その西側、同県糸島郡二丈町松末南側、同県朝倉郡(現朝倉市)杷木町林田・穂波付近の大山中腹、筑後川や有明海を望む城壁の全長2.5km、二ヶ所の水門を持つ把木神籠石付近にも同町道目木松末(ますゑ)には宮地嶽神社、その西北、同県朝倉郡宝珠山(現東峰)村福井・板屋、同郡三輪(現筑前)町高田がある。

 傍国「姐奴(ざの)国」比定地、福岡県太宰府市大佐野の東南、同県筑紫野市阿志岐・吉木高良神社)の阿志岐神籠石は、宮地岳(339m)西側の宝満川を望む位置に展開するが、何故か、西側に在る太宰府政庁南東7㌔の前畑遺跡で、7世紀頃の版築に拠る土塁が発見された。当時、太宰府と対立する勢力が在ったのかも知れない。
 その南側、福岡県久留米市御井崎の高良山神籠石は高良大社(高良玉垂命・八幡大神・住吉大神 豐比咩大神)を登った所に在り、有明海を睨む要所に位置する。現在、北側の城壁は殆ど崩壊するが、南側中腹に列石と土塁が残る。東北側の同市善導寺町島には宮地嶽神社がある。

 福岡県久留米市草野町吉木、古僧都山や清水山(清水寺)麓に山門(やまと)、筑後川南岸の同県八女郡三橋町起田(玉垂神社)、同県八女市川犬との境、同県筑後市溝口と同市若菜に宮地嶽神社、同市長浜に玉垂命神社、同県山門郡(現柳川市)大和町北関に高良神社、同県大牟田市岬に玉垂神社、同県三池郡高田町舞鶴がある。
 また、福岡県山門郡瀬高町大草の女山(ぞやま)神籠石は、東からの丘陵、女山(ぞやま=宇佐神宮の比賣大神?)の末端にある。山頂から南北に伸びる尾根に沿う総延長推定3kmの列石や土塁が連なり、麓の谷には四ヶ所の水門が残る。神籠石群中、列石・水門共に残る貴重な例である。頂点から豊かな水田地帯の先に有明海の対岸、奴国付近が望まれる。
 有明海西北部から西部の佐賀県多久市と同県東松浦郡相知町と同県厳木町境の女山(おんなやま=宇佐神宮の神功皇后?)に関係し、三町と佐賀県武雄市境にある八幡岳(石清水八幡宮の仲哀天皇→應神天皇)と云う関係かもしれない。

 神籠石は見えないが、狗奴国の領域か、熊本県本渡市(現天草市)枦宇土町道目木宮地岳町(十五柱神社合祀宮地嶽神社)、同県天草郡(同市)新和町大宮地・小宮地・宮地浦が見える。官名を彌彌と彌彌那利とする海民(投馬国)が分裂して山幸彦(官狗古智卑狗)に靡いた沿岸航海民→河川民の玉依姫(壹與)を葺不合尊(卑彌弓呼)を伴い北上、航海民の豊玉姫(臺與)を追い払ったと考える。
 例えば、「古事記」天降条、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命と高木神の娘、万幡豊秋津師比賣命との間に生る皇孫天津日高日子番能邇邇芸命が天降りする。皇孫は、国神の道祖神猿田毘古命と天宇受賣命に先導され、氏祖神を従え、竺紫日向の高千穂の久士布流多気に天降り、大山津見神の娘、木花之佐久夜毘売命を娶り、三兄弟を生む。
 道祖神猿田彦に先導された後、天宇受賣命に先導されて伊勢海で死んだ猿田毘古→猿女君の御魂「皇祖天照大御神」を祀る神南備(宮地岳?)、福岡県宗像郡(現福津市)津屋崎町宮司元町の宮地嶽古墳に葬られた後、石室自体を御神体とする宮地嶽神社本社は、その蘇りを禦ぐために建立されたのかも知れない。

 北部九州に拡がる神籠石は宗教施設とする説が有力だが、邪馬壹国伊都国連合東側の傍国(私説)を囲む様に位置する事から、本来、70~80年続いた委奴国連合宗主国の奴国と、その構成国の動向を見張る山城だったと考える。
宮地岳 

阿翁(あをう)免=妻が夫の父を呼ぶ称、祖父とあるが、もしかしたら、猿田彦の呼び名かも知れない。

城壁=その阿志岐神籠石の西側、7世紀頃の太宰府政庁を護る城壁とされる土塁が発掘された。政庁を周る城壁の一部で、その高さ1.5㍍・下部の幅13.5㍍の二段構造は、東側を急勾配にしてを巡らせた防御施設で、版築工法に拠り、固められたとある。これからも對蘇国の比定地とした佐賀県鳥栖市付近に版築作業の技を持つ中国系の人々や石工等が居たのは略確かだろう。
 邪馬壹国が敗れて東遷した後、500~600年頃、対立する政治組織があったのか、この阿志岐山神籠石は含まれない。付近には「景行紀」熊襲討伐経路に点々と続く地名「轟(木)」や「道目木」、宮地嶽神社も見えない。ただ、福岡県筑紫野市吉木には、高良神社(高良玉垂命・大伴建将)がある。

吉木= 岡山県川上郡川上町吉木(よしぎ)、広島県山県郡豊平町吉木(よしき)、愛媛県温泉郡中島町吉木、福岡県久留米市草野町吉木・矢作(やはぎ)、同県豊前市吉木、同県遠賀郡岡垣町吉木・矢矧(やはぎ)川

宮地=岡山県御津郡建部町宮地、同県上房郡北房町宮地、同県上房郡賀陽町宮地(みやち)、同県久米郡久米南町宮地、広島県山県郡芸北町宮地、山口県宇部市宮地町、徳島県麻植郡山川町宮地、高知県高岡郡越知町宮地

海民=「海幸山幸説話」山幸彦が娶った豊玉姫が生んだ葺不合尊、その御子の乳母として送られた玉依姫。また、「記紀神話」伊邪那岐が黄泉国から帰還した後、生した宗像系綿津見三神や住吉系筒之男三神等。尚、「記紀」共によく似た説話が見えるが、夫々に微妙な違いがある。

三兄弟=その火が盛んに燃える時に生まれた子の名は火照(ほでり)命。これは隼人阿多君の祖である。次に生まれた子の名は火須勢理(ほすせり)命。次に生まれた子の御名は火遠理(ほをり)命、亦名天津日高日子穂穂手見命三柱。

宮地嶽古墳=260年以上前に発見された宮地嶽中腹の不動神社を祀る日本最大級の巨石古墳は、御物から推察すると六世紀末~七世紀始めとされる。全長23mという大規模な石室は、高さ、幅とも5mを超す大きな石を積み重ねたもの。
 創建は約1600年前、本来の被葬者は、伊勢の海で亡くなった猿田彦(委奴国王=皇祖天照大神)と考える。その後、天宇受賣命(女王卑彌呼?)も追葬されたが、天照皇祖神として伊勢神宮に遷座したため、祭神は息長足比売命(神功皇后)と、勝村大神、勝頼大神に変わったと考える。
 古墳からは、馬具、刀装具、緑に輝く瑠璃玉や硝子板等、凡そ300点が発見され、どれも第一級の素晴らしいもので、その中、十数点は国宝に指定される。この地を支配した氏族の繁栄と富みを象徴する品で地下の正倉院といえる。ただ、馬具が副葬されるから騎馬民族とするのは、早計で、何度も述べてきた様に、海原の船=草原の馬とすれば、投馬国を構成した海民かも知れない。


  1. 2017/10/28(土) 11:08:33|
  2. 8.神籠石
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◇連合国境

 鹿毛馬(かけのうま)神籠石は、遠賀川支流の穂波川中流域東側、福岡県嘉穂郡頴田町鹿毛馬の小丘陵(海抜80㍍)上に築かれる。城壁の延長は約2kmで、今でも1m程の切石を並べた列石が延々と連なる。麓の谷にある城門と水門二箇所が発掘調査された。
 おそらく、邪馬壹国伊都国連合の傍国「不呼(はは)国」の比定地、福岡県嘉穂郡穂波町天道・高田(たかた)、同郡桂川町馬場島(蓑島神社)・土師・出雲・鶴田、同郡碓井町臼井付近一帯を望む位置どりと考えられる。
 ただ、前項の雷山神籠石と同様、北の同県直方市上頓野(秋葉神社/火産霊・迦具土神)に「道目木」はあるが、何故か、宮地岳や宮地嶽神社は見えない。

 上記、神籠石東南に在る御所ヶ谷神籠石は、同県田川郡香春町の河内王墓参考地の鏡山大神社(神功皇后/仲哀天皇)から仲哀隧道を抜けた同県行橋市津積と同県京都郡勝山町(現みやこ町)大久保・浦河内の境、傍国の比定地境界と思しきホトギ山頂付近から北と東に延びる尾根に築かれ、北部九州の東側、豊国の官衙を見下ろす。
 城壁の延長は約3km、高さ3~5mの土塁底部には列石が連なる。七ヶ所に城門・水門が在り、その中門は幅30m・高さ7~8mの大規模なもので、東門脇に礎石造りの大型建物が在り、神籠石としては終末期の築造とされる。
 この一帯には、「景行紀」熊襲討伐経路に点々と続く地名「轟」や「道目木」、宮地岳や宮地嶽神社の何れも見えないが、この南東の海岸沿い、女王国連合の傍国比定地域から外れた福岡県築上郡大平村唐原の周防灘を望む小丘陵に位置する唐原神籠石があり、御所ヶ谷神籠石との中間付近、福岡県豊前市吉木はあるが、この付近にも宮地岳や宮地嶽神社は見えない。

 上記、神籠石の遥か西南側、有明海沿岸部の佐賀県佐賀市久保泉町上分(勝宿神社/勝宿大明神)の帯隈山神籠石は、同市金立町千布に在る縄文早期の東明遺跡東側、帯隈山頂付近を起点として東西の尾根筋に築かれる。城壁の総延長は約2.4㎞、山頂北に北門跡が確認されたが、南側の谷は水田や用水池として開発されたのか、水門や城門jは残っていない。
 佐賀市街地と南の有明海を望む位置にある。先述した邪馬壹国伊都国連合の傍国、蘇奴(せのを)国の比定地の西側になる。「景行紀」熊襲討伐経路に点々と続く地名「轟」や「道目木」、宮地岳や宮地嶽神社の何れも見えないが、先の香春町「鏡山(呉山)」と同じ山名が帯隈山神籠石西側、佐賀県小城郡(現小城市)小城町と、伊都国の比定地、同県多久市との間にも在る。
 佐賀県佐賀市兵庫町・巨勢町・伊勢町や同県神埼郡神埼町仁比山の仁比山神社(松尾大社分霊大山咋神・鴨玉依姫・日本武尊他)等が見える。

 もう一つ、その南西側、オツボ山神籠石(佐賀県武雄市橘町大日・楢原)は、市内東側の杵島山西麓の小丘陵にある。城壁の全長は約1.8km、途中、6ヶ所の城門・水門がある。長さ1m位の切石を一列一段に敷き並べる列石と、その上面と背面に版築による土塁を築き、土塁の前面には平均3m間隔で柱穴列が検出された。尚、当初、唐尺の一尺(29.5cm)として七世紀後半の築造と判断されたが、このような構造は殆どの神籠石に共通しており、特有のものとされるので、南朝(420~589年)の小尺「24.5㎝」での略十二尺とされる。こうした単位が使う系統の人々が、他にも居たのかも知れない。

 この付近にも「景行紀」熊襲討伐経路に点々と続く地名「轟」や「道目木」、宮地岳や宮地嶽神社の何れも見えない。更に云えば、有明海側から見ると杵島連峰の陰になり、六角川の流れる武雄市街を望む位置に築かれるので、神籠石は山城で、委奴国連合宗主国、奴国の動向を監視、警戒したと考える。
神籠石 
高田=滋賀県長浜市高田(たかだ)町・宮司町、同県東浅井郡湖北町高田(たかた)・馬渡(もうたり)、同県伊香郡高月町東高田(たかだ)、京都府京都市中京区高田町、同府京都市中京区壬生東高田(たかた)町、同府京都市南区唐橋高田(たかだ)町、同府京都市南区久世高田町、同府京都市右京区西院高田町、同府京都市右京区嵯峨野高田町、同府京都市伏見区醍醐高田、同府相楽郡加茂町高田(たかた)、大阪府枚方市 高田(こうだ)、同府茨木市高田(たかだ)町、兵庫県姫路市網干区高田、兵庫県尼崎市高田町(たかた)、同県西脇市高田井(こうだい)町、同県小野市 高田(たかた)町、同県赤穂郡上郡町高田台、同県朝来郡和田山町高田・宮田、奈良県大和高田(たかだ)市高田、同県大和郡山市高田町豊浦町、同県桜井市高田(たかた)・朝倉・出雲、和歌山県新宮市高田、同県伊都郡カツラギ町高田(たかだ)・萩原、鳥取県西伯郡名和町高田、島根県浜田市高田町(たかた)・同県仁多郡仁多町高田・亀嵩(かめだけ)、岡山県岡山市高田(たかだ)、同県和気郡吉永町高田(たかた)・ 同県和気郡吉永町高田・同県真庭郡勝山町高田、広島県佐伯郡能美町高田、同県高田郡甲田町高田原、愛媛県新居浜市高田・同県北条市高田・院内・萩原、同県東予市高田・大野、同県越智郡菊間町高田(こうだ)・同県北宇和郡津島町 高田(たかた)、福岡県北九州市門司区高田(たかだ)、同県北九州市小倉北区新高田・金田、同県豊前市高田(たかた)・吉木、同県前原市高田・有田・王丸・荻浦(をぎのうら)、同県糟屋郡篠栗町高田・萩尾(はぎのを)、同県朝倉郡三輪町高田・奈良、佐賀県鳥栖市高田・轟木町、長崎県福江市高田(こうだ)町・大津町、同県西彼杵郡長与町高田郷・山田、熊本県菊池郡七城町高田(たかた)、大分県豊後高田市高田(たかだ)・佐野、鹿児島川辺郡川辺町高田(たかた)・馬場

道目木=地図にはないが、邪馬国の比定地とした長崎県西彼杵郡(現西海市)西彼町亀浦郷・亀岳・木場・八木原郷背後の白岳を越えた西側、同郡大瀬戸町道目木・板浦には、城ノ尾岳があり、神籠石か、山城があったのかも知れない。また、熊本県本渡市(現天草市)枦宇土町道目木・亀場町亀川がある。

豊国の官衙=豊前国府跡は、福岡県京都郡豊津町(現みやこ町)国作(こくさく)地区・国分(国分寺卍)・惣社(そうしゃ)付近にあったとされるが、同県行橋市の福原長者原遺跡は、8世紀頃(奈良時代)の役所の跡で、九州では大宰府政庁に次ぐ規模や、門の格式から国府だったとされる。*臺與の国
 一辺約150m四方の溝と、内側の一辺約120m四方の回廊に囲まれた区画に大規模な堀立柱建物が整然と建ち並び、区画の南側からは八脚門と呼ばれる格式の高い大規模な門の跡も発見された。尚、豊国(とよくに)とするが、「君の本」と同様、豊が持つ国とすれば、「とよのくに」とした方が良い。

勝宿(かししゅく)神社=加知彌(かちみ)神社「彦火火出見命、鵜萱葺不合命、玉依姫命」 鳥取県気高郡鹿野(しかの)町寺内155-1
 寺内部落の薬師堂付近、勝宿大明神の別当寺の旧跡とされる遺瓦は奈良後期のもので、塔礎とみられる礎石がある。また、同町鷲峯の鷲峯神社は、孝元天皇を祀る。鳥取県神祇年表の巻頭に孝元5年八千矛神(亦名大己貴命)が天羽車大鷲に乗って、この山に降りられたとある。
 飯田の森にある創立年代は不詳の加知弥神社は延喜式神名帳に載る式内の古社。昔、勝宿大明神と号し、旧社地は宮谷、或いは、明神ガ鼻であったという。中世以降武将の崇敬が篤く、永録8(1556)年、武田高信、田公高清、矢田幸佐等が社殿を造営し、天正8(1580)年、吉川元春は戦勝を祈願して社領を寄進した。尚、元春の祈願状、寄進状2巻が昭和32年12月県の保護文化財に指定されている。
 社伝に拠ると、天正年中、豊臣秀吉が防己尾(つづらを)城落城時、社領を寄進した。また、元和9(1623)年、池田光政が社殿を修理し、寛永10(1638)年、国主池田光仲は、改めて社領39石6斗9升3合を寄進したが、累代の藩主も崇敬篤く、社殿の営繕ある毎に金殻木材を寄進、幣帛を奉納した。
 明治4年、県社になり、同40年3月、神饌幣帛共進(しんせんへいはくきょうしん)神社に指定。大正2年11月、当社の摂社、及び付近の神社14社を境内に合祀して1社を建て、新たに勝宿神社と称えた。例祭日は10月21日。

鏡山=佐賀県唐津市の菜畑遺跡と松浦川を挟んだ東側、末盧国の比定地とした同市中原・柏崎(八坂神社)・鏡(別名・領巾振山)にもある。

オツボ=苧麻(からむし/ちょま)を耕作する畑の苧坪(おつぼ)、苧麻(まを)=カラムシの茎の皮の繊維で作った糸。靫(うつぼ)=矢を盛り、腰に背負う用具。中空の籠(羽壺の合字)。御壺=膳部にのせる壺に盛った食物。禁中の局(つぼね)。小坪(をつぼ)=小さい中庭や小壺(をつぼ)=小形の壺。等と関係するか。

南朝=420~589年にわたり、漢族の立てた宋・斉(南斉)・梁・陳の四朝をいう。呉、及び、東晋の二朝と合して六朝(りくちょう)ともいう。
 尺の換算値は、西晋の頃、一尺=24.1㎝・一歩=五尺だが、3m前後では、12尺でなければ合わない。但し、周朝以後、一歩=五尺とされる理由は分からず、騎馬民族に近い晋朝(司馬氏)の持つ馬の走行距離/日(70~150㎞)の平均値「105m」を一里=100m前後とした根拠といsた。もしかしたら、本来が、遊牧騎馬民族の満州族やツングーズ(扶余)に近い馬韓の伯済(百済)は晋朝に巣くった騎馬民族の意識だったのかも知れない。

 周    19.9cm 1歩=6尺 119.4cm
 秦・前漢 27.7cm 1歩=5尺 138.5cm 1里=360歩 498.6m
 新・後漢 23.0cm 1歩=5尺 115.0cm 1里=360歩 414.0m
 魏・晋  24.1cm 1歩=5尺 120.5cm 1里=360歩 433.8m
 北魏   27.9cm 1歩=5尺 139.5cm 1里=360歩 502.2m
 隋    29.5cm 1歩=5尺 147.5cm 1里=360歩 531.0m
 唐・五代 31.1cm 1歩=5尺 155.5cm 1里=360歩 559.8m



  1. 2017/10/19(木) 08:14:00|
  2. 8.神籠石
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◇倭人と呉太伯

 福岡県前原市雷山の雷山神籠石は邪馬壹国伊都国連合の傍国「已百支国」の比定地、福岡県前原市多久有田高田・板持・王丸(白木神社/五十猛命)・荻浦、同県糸島郡二丈町唐原・道元南側、雷山北側の尾根に築かれた神籠石で、西北側に宮地岳、その西側に宮地嶽神社(同市高祖)が見える。前面には同郡二丈町一貴山弥生遺跡や、前原市街北側の同郡志摩町を隔てる糸島水道や玄海灘を望む。
 その糸島郡二丈町や前原市街北側、糸島半島の筑紫富士の可也山南麓に、「紀」景行天皇の熊襲討伐経路に点々と続く地名「轟(とどろき→どめき)」と同語源と云われる同県糸島郡志摩町道目木桜井桜井神社)・香月、西側の松浦半島、佐賀県東松浦郡玄海町轟木、南側に佐賀県鳥栖市轟木・高田がある。
 「紀」熊襲討伐と巡狩を終えた景行天皇は、浮羽(うくは)から討伐経路の日向に戻り、大和へ帰還する。ただ、公共交通機関や高速道路等が整備された現代ならば、いざ知らず、河川を利用した陸行か、沿岸航行以外に移動手段のなかった古代、そうした無駄な動きはしない。
 「紀」垂仁天皇の皇后狭穂姫とするが、「記」沙本毘古命の妹佐波遅比賣命とし、兄沙本毘古と共に謀反するとあり、熊襲討伐や巡狩の進行経路の流れに順うと、始発地の周防娑婆は、山口県佐波郡ではなく、福岡県浮羽郡吉井町桜井・若宮から筑後川北岸の同県朝倉市杷木町久喜宮(杷木神籠石)に渡り、佐賀県鳥栖市轟木から福岡県前原市と同県福岡市西区境、日向(ひなた)峠を越えた同県二丈町佐波や福井付近で、後代、周防娑麼へ東遷したと考える。

 福岡県前原市多久の託杜神社は、本来、託杜咩(たくとめ)神が祀られていたが、慶応年間、十六天神を村名に拠り、改名したとある。村名「多久」であった由緒は定かではない。その託杜咩神は託宣の神で、本殿背後の左右に木々は繁るが、真後ろには植えられておらず、奥に見える丘を祀っているとある。
 また、丹生広良氏の丹生神社と丹生氏の研究に拠ると託杜咩神は丹生都比売神の異称とする。一方、此処は新羅の天日矛(あめのひぼこ)との繋がりが強いので、赤留比売(あかるひめ)神とも云われる。

 尚、中国神話と歴史を繋ぐ実在した夏王朝や殷王朝、周王朝の王子太伯は、聖人とされた末弟に王位を譲るべく自ら南方の地に去り、文身断髪した。太伯は、自ら勾呉と号し、呉の太伯と呼ばれた。
 「魏志東夷伝」倭人は大夫を自称したとある。周王朝末の小氷期、春秋(BC770~BC402)の動乱期、揚子江南岸の江南には越と呉の強国が興り、相争った。呉は太伯、越は禹の苗裔夏后帝少康後裔と称した。ともに「夷」だが、「華」の後裔を称す。
 そのBC5~BC3世紀頃、春秋時代から小国家が分立して相争う戦国時代、越の攻勢に大陸東南部から追われた呉太伯の血を嗣ぐ美しい姫、大日女と稚日女は倭国に渡来、文化や技術、水耕稲作や金属の使用を教えて国土開拓を導びいた二人は、天照大神と丹生都姫神に化体されたとも云われる。

 自国を誇り、漢民族が自称した華夏(華=文華・夏=大の意)とは、文華の開けた国や都の意味で、周王朝に与した殷王朝()、王朝の人々(母系?)を併せたとすれば、その三つ巴(鼎)が「漢」として良い。その枠組みに属さず、大陸周辺部に追い遣られた胡、夷に押し出されて南中国や東南アジアへ逃れた人々、中でも東南部に逃れた東夷が耕作民や海民を伴い南西諸島を経て西九州へ渡来した人々が倭人と呼ばれ、委奴国連合を構成したと考えられる。その後、東北部の満州から朝鮮半島に逃れた人々(朝鮮族)も大陸東岸の沿岸航海民(韓族?)を伴い渡来して邪馬壹国の中枢を担ったと考える。

唐原(とうばる)=糸島市二丈満吉北部、標高約330mの山間に在る小さな集落、唐原(とうばる)には平家の落人に纏わる悲しい伝承がある。平安末期、この里に平清盛の嫡男重盛の内室(妻)と二人の姫等が逃げ延びて安住の地を得たのも束の間、源氏の追っ手により、悲惨な最期を遂げた。残った家臣達も後を追って死のうとしたが、内室と姫達の霊を弔うために思い止まり、農耕を行いながら、この地に住み着いた。今も内室や姫等の墓や、都を懐かしんだ都見石、重盛の遺髪を納めた黒髪塚、姫達が、その前で舞ったとされる千寿院の滝等が残る。
 尚、九州管内には、福岡県築上郡大平村唐原の唐原神籠石、同県岡市東区唐原(とうのはる)が見える。

桜井神社=神直日神・大直日神・八十枉津日(やそまがつひ)神を祀る。地名「桜井」は、福岡県浮羽郡(現うきは市)吉井町桜井・宮田、同県朝倉郡(現朝倉市)朝倉町、京都府京都市北区上賀茂桜井町・出雲路、同府京都市上京区桜井町、大阪府富田林市桜井町・五軒家、同府三島郡島本町桜井、奈良県桜井市桜井・朝倉台・出雲・高田、愛媛県今治市桜井、同県越智郡(現今治市)朝倉村朝倉、高知県高知市桜井町・朝倉(朝倉神社)・福井町、熊本県水俣市桜井町。
 朝倉神社「天津羽羽神、天豐財重日足姫天皇」、天津羽羽神は天石帆別神、天石門別神の御子。斉明天皇御陵地は、当社から3km西南の鵜来巣山にある。また、福岡県朝倉郡(現朝倉市)朝倉町須川・長安寺付近、斉明天皇の陵墓伝承地「橘の広庭」がある。 
 欽明天皇の子桜井皇子の娘吉備姫王[吉備島皇祖母命](茅淳王妃・皇極/斉明天皇・孝徳天皇母)、紀伊国造後裔桜井氏、後漢霊帝後裔阿智使主後裔桜井氏等が見える。

丹生都比売神=和歌山県伊都(いと)郡高野町慈尊院835の慈尊院の境内にある丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社とある。
 ●丹生都比売大神(丹生明神)・丹生高野御子大神(高野明神)・狩場明神
 ●丹生都姫神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野30)
 丹生都比売大神(丹生明神)・丹生大明神(神告門では天照大神の妹稚日女命)・丹生高野御子大神(高野明神)・大食都比売大神(気比明神)・市杵島比売大神(厳島明神)。丹生とは水銀を含む赤土で、その発掘に関わった氏神とも云われる。また、水分(みくまり)の神とも言われ、水を与え、水の配分を司った。 空海に高野山を譲った神としての伝承で有名。空海の資金源は水銀であった。
 ●田殿丹生(たどのにゅう)神社 和歌山県有田郡吉備町出335
 丹生都比売命(丹生大明神 天照皇大神の妹神)・大名草彦命(高野大明神 丹生大明神の御子神)
 配祀神 天照皇大神,菊理姫命、大穴牟遅命、八柱御子神、大物主命他
 境内社 夏瀬神社、白山神社(山頂)、吉備神社、春日神社、弁財天神
 ●丹生神社・丹生都姫(佐賀県嬉野郡嬉野温泉)、丹生川、塩田川上流に祀る。下流に稲佐神社、妻山神社、多良嶽神(五十猛命)が祀られる。

 ただ、託杜神社祭神の伊弉諾命、伊弉册命、瓊瓊杵命、埴安命彦、火火出見命、鵜草葺不合尊、木花開耶姫命とあり、何れが託杜咩神にあたるのだろうか。

赤留比売神=杭全神社摂社赤留比売神社(大阪府大阪市平野区平野東2-10) 半島系渡来族出石人の太陽女神とされている。
 ●楯原神社(大阪市平野区喜連6-1-38)
 武甕槌大神、大国主大神、孝元天皇、菅原道真、本来は、赤留姫命 配祀 豊玉彦命、豊珠姫命、境内摂社 十種神宝大神
 河内国伎人(くれひと)郷で、崇神天皇御代の創建とされる式内社。赤留比売を祭神とする理由は、平野郷の赤留比売神社(杭全神社摂社)より勧請した龍王社を合祀し、境内の別宮に祀り、奥の宮と称していたのを、現在は合殿している。
 住吉郡式内小社。現在は杭全神社の飛び地摂社で「三十歩社」と呼んでいる。 かっては住吉大社の末社であった。 三品彰英は「神妻である童女・赤留比賣命の原態は巫女、即ち、祀る者であり、祀られる神である天日鉾は巫女に招祷される存在であるが故に、彼女の到る地に従い、その後を追わねばならなかった。   歴史的に云えば、巫女の宗祇が伝来し、彼女ら日鉾族の移動に従って天日鉾の遍歴物語が構成されることになった。尚、巫女である祀る者が祀られる者に昇華する時、巫女は比売許曽社の女神となる」とある。佐賀県鳥栖市轟木東北側、姫方に姫古曽神社。
 天日鉾の遍歴物語は、都怒我阿羅斯等の物語とも重なり、兵主神社の分布もあわせて、日本の古代の王権の成立に深く関わる出来事であったようだ。

夏王朝や殷王朝=陳寿は、倭人の風習や慣習から中国大陸の東南部に向かった夏后少康の伝承を持ち出し、よくに似るとする。越は、夏王朝「禹」苗裔の夏后少康の流れを称したとされる。また、周王朝の王子呉太伯が殷王朝の関係者に関わりが在り、主流から外れたとすれば、両者は王朝交替の動乱で追われたとも考えられ、漢民族とは、この三王朝の併合として良い。それが天命を受けた王の神器で、三本足の鼎(かなへ)に化体された。


  1. 2017/10/11(水) 14:38:39|
  2. 8.神籠石
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(13)鬼国

 鬼[kıuər][kıuəi][kıuəi]=(字統)人に従い鬼頭を象ると在り、人屍の風化したものを云う。同系の文字「畏」は鬼が呪杖を持った形とあり、王や貴族の死を司る神官の一族で、御体(みま)の魂魄を扱う職分(遺体であれば、隠亡?)を掌る人々の長と考える。

 漢字音は「キゥァ→クァ→カ(コ)」=河(木)国、木国=基肄→紀伊は熊野川や紀ノ川上流部とされるが、比定地の流れに順い佐賀県杵島(きしま)郡南部と同県藤津郡塩田町や同県鹿島(かしま)市の高津原・一本付近一帯を、その中枢部に比定する。
 年代は未詳だが、一本柿遺跡や旭ケ丘遺跡があり、海側に「小舟津」とあり、「柿」は竹で編んだ籬や垣で「中川」の泥濘地を埋め立てた建端で、「橘」「立花」は河川沿岸部や切り立った岬等に使われる。

 邪馬壹国の官彌馬獲支(みまふぁけ→みまわけ/みまふぁぃぇ→みまはぃぇ→みまひぇ→みまへ)=御体別・御体部→御前は、この国の王で女王卑彌呼の御前に座してお告げを聞いたか。尚、邪馬壹国と伊都国連合は鬼国を通じ、委奴国連合の鬼奴(カナ)国の人々を使役した。 
 また、「奴国」項で海民が使訳を務めたとした様に、狄鞮・鞮訳等、「鞮」=北方夷狄の言語、及び、その通訳と在り、おそらく、邪馬壹国の官名「奴佳鞮」は海民を伴い渡来した殷王族後裔の箕子氏や燕の武人系の衛氏朝鮮等の王族に仕えた官僚と考えられる。

 佐賀県鹿島市母ヶ浦海手に七浦地区、奴国の中枢、佐賀県武雄市北側の女(おんな)山、有明海を挟み東側、邪馬壹国の比定地、福岡県八女市の女(ぞ)山神籠石南側の同県大牟田市七浦三池(宮地嶽神社)、為吾国と躬臣国との境に長崎県佐世保市母ヶ浦(ほうがうら)等がある。

 武内宿禰は福岡市西区壱岐付近、愛宕山に出城を持った壱岐真根子の娘「豊子」を妻にしたとされ、彼は壱岐の小戸(博多湾)から木国(武雄)へ阿利那礼川で有明海へ抜け、自由に往来していたと思われる。その二人は見かけが、うり二つで、武内宿禰の身代わりになって死んだ後、遺体は壱岐ではなく、佐賀県武雄市若木町の伏尺神社(祭神・壱岐直真根子)に葬ったと伝承される。壱岐真根子は「記」建内宿禰(博多湾)と「紀」武内宿禰(有明海)に転生したのかも知れない。

 「景行紀」昔、大きな歴木(くぬぎ)があり、朝日は杵島、夕日は阿蘇を覆ったと云う伝承から御木(みき→みいけ)国と名付ける事に関連し、狗奴国に追われ、後代、肥前と呼ばれた地域の国々は鬼国(木国→河国)と共に邪馬壹国伊都国連合の一部が出雲方面へ東遷する。
 「仲哀紀」福岡県東部の遠賀川付近で登場する伊蘇志と誉められた筑紫伊覩県主祖五十迹手(いとで)とあり、肥国(建日向日豊久士比泥別)は海民の一部が河民(山祇)として、神遣いされた速スサノヲがヲロチ退治した出雲の肥河上へ南風で上ると(狗奴国の北上)、その攻勢に邪馬壹国壹国連合一部(肥前→出雲)は日本海側へ移動、肥後(木国→紀伊=和歌山県)の一部も瀬戸内沿岸部を東遷を始める。

 素戔嗚尊の御子五十猛命の徳を称えるため佐賀県杵島郡白石町大字馬洗(もうらい)に妻山神社「抓津彦命・妹の抓津姫命」が創建される。その社伝では、五十猛命が韓(から)国から樹木の種を持ち帰り、杵島山に播種、発芽を見て紀伊の熊野に行った。その後、全山が緑に覆われたため、木島→杵島と呼んだとされる。
 その木国の領域か、鬼国の比定地、鹿島市七浦地区付近で盛んな鬼面を付ける面浮立が、奴国の比定地、佐賀県武雄市若子町・同県杵島郡北方町木ノ元・馬神(うまがみ)、椛島(椛島遺跡)周辺の同県藤津郡、多久市、小城郡、佐賀郡の一部迄も拡がる。(了)

木国=筑後川や遠賀川沿岸部には「木」の付く地名、スサノヲを祀る須賀神社が多く在り、両河川との関わり外す事はできず、スサノヲが熊野の木国(河の国)へ向かったと云う伝承も無視できない。

建端(たちばな)=西北の佐賀県藤津郡塩田町五町田(吉浦神社)付近、和泉守道貞の妻和泉式部の歌碑公園。和泉式部=平安中期の歌人(生没年未)。中古三十六歌仙の一人。大江雅致(まさむね)娘。杵島福泉寺で生まれ、塩田郷の大黒丸夫婦に9歳迄、育てられた。天皇に優れた才能を見抜かれ、京都の宮廷に仕える。小式部内侍の母。為尊親王・敦道親王の寵を受け、中宮彰子に出仕後、南家巨勢麿後裔藤原保昌に嫁す。恋愛歌人として有名。「和泉式部日記」「和泉式部集」。
 また、同町馬場下には紀国に多い丹生(にう→たんじょう)神社(丹生都媛命)がある。藤津郡と長崎県東彼杵郡郡境に聳える虚空蔵山に源とする丹生川は、藤津郡嬉野町を経て嬉野川、同郡塩田町を経て塩田川となり、有明海に注ぐ。
 この川筋に丹生(たんじょう)神社が鎮座する。佐賀県藤津郡嬉野町丹生川144・丹生神社(丹生都比女命)、同町丹生川下野・丹生神社(罔象女命)、同町不動山丙・川上丹生神社(丹生都比女命)、同町不動山甲・丹生神社(丹生都比女命)、同県鹿島市井手・丹生神社(罔象女神)。

邪馬壹国=女王卑弥呼が隠れた宮殿の位置を矢部川支流山井川沿岸の福岡県八女市亀甲・蒲原付近に比定した。その南西側、同県大牟田市歴木・甘木・萩尾町・亀甲馬渡町・教楽来・田隈(たくま)付近に「御体別」の役所があったか。他にも出雲町・松浦町・甘木・七浦町・橘・三池(宮地嶽神社)等の地名が見える。

狄鞮=西方の未開民族の北狄、北方塞外の匈奴(きょうど)・鮮卑(せんぴ)・柔然(じゅうぜん)・突厥(とっけつ)・契丹(きったん)・。回紇。回鶻(かいこつ→ウイグル)・蒙古(モンゴル)等の遊牧民族の言葉を通訳する人。通訳官とある。おそらく、邪馬壹国伊都国連合が遣わした使者の使訳も同様の人々と考える。

伊蘇志=藤原廣嗣の乱(740年)や恵美押勝の乱(764年)にも功があった大野東人とされるが、大野(多)氏に東人は見えないが、紀国造天通根命後裔(中略)豊布流の流れに伊蘇志臣東人(生没年不詳)とある。

妹の抓津姫命=国名「邪馬」は男性の覡(馬)と違い父系統の女性が陰陽のバランスが悪い巫女として神事を掌る国。邪馬壹國の官「彌馬升(みませ)」の彌馬は、巫女の御体(みま)を生む男婿の有資格者で、この国の女系を娶り、本来、父系の王になっていたが、伊都国の台頭に因る争乱で、狗奴国が分裂して、女王卑彌呼を共立して収拾した。社伝に拠ると、抓津彦命が五十猛命(いたける)命で、勇猛山(妹山=抓津姫命)を神奈備とし、この祭神は妻山神社だけとされる。

面浮立(めんぶりゅう)=鬼面を着けて踊る佐賀県を代表する民俗芸能で、その起源は五穀豊穣を祈る農耕の祭や追儺=鬼追い行事を基盤とし、浮立化された芸能とされる。鹿島市七浦地区、同市音成(おとなり)面浮立と母ヶ浦面浮立の二系統がある。尚、長崎県佐世保市母ヶ浦(ほうがうら)と云う地名がある。
 尚、奴(ナ)と関連し、儺[nar][na(nda)][no]=鬼遣らいは死んだ人の魂を送る精霊流しか。儺県とは、角(つぬ→つづ→つる)=水路で治水した土地、福岡県福岡市中央区舞鶴(ま・いづる)、同市東区馬出(ま・いだし)、同県三池郡(現みやま市)高田町舞鶴、大分県大分市舞鶴町等と同源の地名と考える。



  1. 2017/09/28(木) 09:48:09|
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