見まごう邪馬台国

◇迫間(はさま)

   佐波(さば)・狭(せま=州)と同源の言葉に、迫(せま)る=間隔が狭い、閉まる・締まる=区画する→終う、縞(しま→せま)=細長く狭いがある。また、迫間(はさま)=谷間の奥まった狭い地形で、物と物との間が狭い所。他にも「狭間」「硲」等、西日本では以下の如くある。

  福岡県豊前市挾間(はさま)・大村・鬼木・轟・広瀬
  大分県大分郡挾間町挾間(はさま)・鬼瀬・鬼崎
  大分県東国東郡武蔵町狭間(はさま)・小城、同郡安岐町朝来
  熊本県菊池市西迫間(はざま・鞠智城跡)・大平・長田広瀬
  熊本県玉名市上迫間(はざま)・亀甲・山田・横田
  島根県大田市久利町佐摩、大屋町鬼村・角折、朝山町朝倉、五十猛町、大代町山田、鳥居町大平
  鳥取県西伯郡大山町佐摩(佐間神社祭神天津彦火瓊瓊杵尊・合祀五十猛命他)・長田・平神社(平)
 
 「記」垂仁天皇の唖(おし)の御子、品牟都(ほむた→ほむつ)和気王は大鳥(倭建命/大和武尊?)が飛ぶのを見て口を利いたため、品遅部(ホムチベ)を定める。一方、「紀」誉津(ほむつ)別王は、景行天皇の和風諡号「大足彦忍代別(オホタラシヒコオシロワケ)は、忍=声が出ないとする。

 「記」品牟都和気王から本牟智ほむち)和気王と御名が変わり、一夜、交わった出雲の肥長比賣が(をろち→へび→はみ)と知り、恐れて逃げ出す。悲しんだ比賣が海原を照らしながら船で追いかけると、御子は山の窪み=迫間(はさま)=船越から船を引き上げ、山を越して逃げ進む。この時、御子は海民の助けを失う。*「
 「記」景行天皇の和風諡号「淤斯呂(うしろ)→尻尾」とすれば、ヲロチの尾を切り裂き出てきた剣(けん→つるぎ)→草那芸大刀(建=たち)で、幼子小碓(倭建)命のが立ち、速く進み東国を討伐するが、その還り、足が多芸多芸(たぎたぎ)しくなる(重くて動かない)。

 景行天皇(大帯日子淤斯呂和気)は船を操る海民唖(オァシ)→国(馬国)を外洋航海民と沿岸や河川航海民の二系に別けたと考える。死後、白鳥(おおとり)となり、飛んで行く倭建命(日本武尊)の孫、「記」品陀(ほむた)和気命(應神天皇)として転生し、五百木之入日子命が尾張連祖建伊那陀宿禰の娘、志理都紀斗賣を娶り、生した御子品陀真若王の娘、高木之入日賣命。次に中日賣命。次に弟日賣命の三柱を娶り、宇佐神宮の比賣神と同体の宗像三女神と繋ぐ。
 八俣大蛇(「紀」八岐大蛇)とは母系海民が分裂、独身(豊玉姫)と夫婦(山幸彦と玉依姫)と云う二系統の成立を示唆する。尚、蛇(をろち)とされた肥長比賣(豊玉姫)と契りを結んだ本牟智和気王は山幸彦(河民)の化体として良い。

 邪馬壹国と狗奴国の戦いの最中、海民が外洋航海民(馬)と沿岸航海民(鹿)に分裂後、更に沿岸航海民が住吉系志賀(志賀海神社)と、河川民の安曇系四箇(飯盛神社)に振り分けられ、後者は稲作民を伴い耕作地を求めて河川を遡り、雲海上の山神と同一視される。

  志賀海神社=底津綿津見神・仲津綿津見神・表津綿津見神、配祀 玉依姫命・神功皇后・應神天皇
  摂社 今宮神社=穂高見神(山神)、安曇磯良神

 「古事記上巻」=此三柱綿津見神者阿曇連等之祖神以伊都久神也阿曇連者其綿津見神子宇都志日金拆命之子孫也」
 「旧事記」=底津少童命・仲津少童命・表津少童命(綿津見神の別号)此三神者阿曇連等所祭筑紫斯香神也

 牡鹿(男神=ヲカ)の角が奉納される志賀海神社は鹿(ちか)=近島として良い。また、大阪府大阪市住吉区住吉の元官幣大社の住吉大社は新羅討伐の航海を扶けた上(表)筒之男神・中筒之男・下筒之男と云う男神と、その男系の女子、神功皇后を祀る。

迫間(はさま)=合間(あひま)は、物と物、人と人との組合せ、多く衣装の配色や人間関係、釣合い、間柄。折(をり)、都合、形勢。間(あひだ)=物と物、時と時との間。隙間(すきま)で、畑の畦(あぶ/あぜ)=田畑の畦畔、平地の小高い所。畦と畝が交互に列ぶ状態、山の谷間で奥まった所とも繋がる。一方、畝(うね)=田畑に作物を植えつけるため、間隔をおいて土を筋状に高く盛り上げた所。山脈・波等、小高く連なった所。織物等とある。畑の畦の場合、少し高い畝との間にある細長く低い所で、畝と畦が交互に列ぶ。ただ、水田の場合、畑とは反対に、田圃に水を貯めるので畦が高い。よく似た地形「迫(さこ)」=山麓にある谷間の先端は、開・拆・裂(さく)や、先・崎・碕(さき)等と同源、地名として略全国的に見られる。
 よく似た字形の「追(おふ)」= 〔他五〕距離をおいた対象を目指し、それに追いつこうと後から急ぐ。先に進むものに及ぼうとして急いで行く=追いかける。場所や物等を目指して進む事や追い求めるとある。

蛇(をろち→へび→はみ)=スサノヲがヤマタノヲロチの尾を切り裂いたとすれば、一本の尾が二本の足に成ったのかも知れない。尚、「はみ」=不彌(はみ)国との関連が考えられる。
 「紀」伊奘諾尊、斬軻遇突智命、爲五段。此各化成五山祇。一則首、化爲大山祇。二則身中、化爲中山祇。三則手、化爲麓山祇。四則腰、化爲正勝山祇。五則足、化爲シギ(酓+隹)山祇。是時、斬血激灑、染於石礫樹草。此草木沙石自含火之縁也。麓 山足曰麓 此云簸耶磨。正勝、此云麻沙柯。一云麻左柯豆。「シギ」此云之伎。音鳥含反。と在り、山(やま)の足(たる→たの)を麓(はやま)とする。

唖(オァシ)=景行天皇の忍(おし→しのぶ)を声を出さずに耐える事とすれば、「唖」も発声できないのではなく、言葉が喋れない事を云う。詰まり、垂仁天皇の御子本牟智(ほむち)和気王を「記紀」言葉の通じない国の人とすれば、「記」喋る様になる=和合、「紀」喋らないまま=不和を示唆するとも考えられる。

五百木之入日子命=次項の(2)已百支国との関連が取り沙汰される。また、尾張連祖伊那陀宿禰の娘、志理都紀斗賣の「都紀」も(4)都支(たけ)国を国とした事とも繋がる。「記紀」成立期の中古音、志[tiəg][tʃei][tsi]・理[lıəg][lıei][li]・都[tag][to][tu]・紀[kıəg][kıei][ki]=志理都紀(チェィレィトキェィ→チリトケィ→チリタチ)、「乙き」紀、「甲き」枳[kieg/tieg][kie/tʃıĕ][tsu]→支と云う違いはあるが、「魏志倭人伝」成立期の上古音とすれば、都[tag][to][tu]・支[kieg][tʃıĕ][tsï]、都支=タキェ→タケ(建)、中古音では、タチェ→タチ(大刀)になる。

雲海上の山神=山頂の神「大山咋神」が大山津見神として川を流れ下り、河口から海中に入ると安曇磯良になる。それが故、天降りした皇孫の日子番能邇邇芸命(彦穂瓊瓊杵尊)が笠沙岬(河口)で、木花佐久夜比賣(木花咲耶姫)を娶ると考えられる。

安曇磯良神=『八幡大菩薩愚童訓』神功皇后が乗った船の舵取りを務めた人で、長く海中に住んでいたために牡蠣等が顔面に付着した磯良の容貌は醜怪であったとあり、安曇磯良神と云う海底の物怪が鹿島明神とされ、古代の海人が持つ信仰に由来すると云う。
 その常陸国「鹿島大明神」が大和の春日明神、筑前の志賀明神が同体異名とする理由は、志賀海神社に牡鹿(をが)の角が奉納される事、春日大明神では神の使いが鹿とされ、何れも鹿と関係がある事。更に云えば、沿岸航海と湖沼や河川航海を鹿(ちか)=近(ちか)とすれば、外洋航海民の乗り物「船=馬」とした様に地名の長崎県対馬や、馬渡(まだら)等、馬=遠(とほ→とぼ→とも)=伴・友と云う関係があるのかも知れない。

斯香=四箇(しか)と同系。注の志理都紀斗賣の志理(しり)は、志賀=鹿(ちか)と同系音となる。これを斯理(しり)=尻・後・尾とすれば、四箇(しか)と同系音になる。花が咲いた木花佐久夜毘賣命とは反対に、大山津見神の娘木花知流(かはちる→かはちの)比賣は花が散る。
 天皇家の二大史書「古事記」と「日本書紀」の担い手が違うため、古事記は「チマ」と「シマ」と使い分けて示唆し、「記」大山津見の娘木花知流比賣と木花佐久夜毘賣の関係と同様、母系海人の分裂を示唆する。但し、南北朝期以降、日本(やまと→にほん)=二本(古事記と日本書紀)として併合されたため、正史とされた日本書紀は同系として記述する。江戸初期迄、行方知れずだった古事記は、名古屋市内の真福寺から発見されたが、当初、偽書とされた。その後、本居宣長や新井白石等が研究を始める。

住吉大社=二十二社の一つ。摂津国一の宮。他にも下関市住吉神社(長門国一の宮)や福岡市博多区住吉(筑前国一の宮)等、各地にある。


  1. 2017/02/03(金) 00:38:31|
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◇倭母(わも)

 「記」伊久米伊理毘古伊佐知(いさち)命に倣い「紀」活目入彦五十狭茅尊も「狭」の北京音[xia]=シァ→サ、茅(ちがや)=「チ」としたのだろうが、万葉仮名が漢字音を訓音として使われると云う前提とすれば、狭[ɦap][ɦap][hia]と、茅[mŏg][mău(mbău)][mau]の上古音・中古音に拠ると、ファッマゥ→ゥアマゥ→ワム(ファム→ハム)、ワムバゥ(ハムバゥ)→ワボ(ハブ)となる。

 「記」小碓命が兄大碓命を打ちのめしたと聞いた父景行天皇は小碓命→倭建(ヤマトタケル)命の猛々しく荒い乱暴な性格を恐れ、西方にいる従わない無礼な熊曾建の二人を討てと遣わした。この時、未だ、髪を額の上で結っていた小碓命は父の妹、倭比賣(ヤマトヒメ)から衣装を授かり、その懐に剣を納めて出かける。
  剣(けん)=建(けん→たけ→たち)とすれば、懐の剣=小碓命(幼子)は姨倭比賣(乳母玉依姫)の庇護下、倭建命(葺不合=卑彌弓呼)として足が立ち成人した。尚、剣(つるぎ)は、死後、白鳥(おおとり)=鶴岐(⇔鶴美)となり、飛んでいった倭建命になる。

 「記」垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)が沙本毘古命の佐波遅比賣命を娶り、生す子唖の品牟都(本牟智)和気命(入日子=継子?)、旦波比古多多須美知宇斯王の娘比婆須比賣命を娶り生す子、印色之入日子命・大帯日子淤斯呂和気命(景行)・大中津日子命・倭比賣命・若木入日子命。とある。
 倭(やまと)の「ヤマ」=分ける事とすれば、垂仁天皇の和風諡号「倭母」は御子を産む皇后佐波遅比賣と後添いの旦波美知能宇斯(投馬道主)王の娘、後者は四姉妹(「紀」五姉妹)に変わる事に関わる。
 また、兄比賣(比婆須比賣命)→沙本毘古命、佐波遅比賣命→弟比賣(沙本毘賣=歌凝比賣命)、円野比賣命→双子の倭建命として転生させるが、「紀」は真砥野媛と竹野媛として、
その兄大碓命と繋ぐと考えられる
 小碓(倭建)命が伊玖米(垂仁)天皇の娘、布多遅能伊理毘賣命(ふたち)を娶り生す子、帯中日子命(仲哀)一柱。入水した橘比賣命を娶り、生す子若建王一柱。近淡海之安国造祖意富多牟和気の、布多遅比賣を娶り、生す子稲依別王一柱。吉備臣建日子の、大吉備建比賣を娶り、生す子建貝児王一柱。山代之玖玖麻毛理比賣を娶り生す子足鏡別王一柱。或る妻の子息長田別王。併せて六柱。
 
 尚、「紀」五十鈴川上の磯宮。崇神天皇の御世、豊鋤日賣命が祭祀する。この御世、天照大神の御魂を倭姫命に移し、その鎮座地を求め、現在の三重県東北部の伊勢国に至るとある。

 「紀」景行天皇熊襲討伐の終点「浮羽」から日向峠を越え、福岡県糸島郡二丈町佐波・福井や東側の同郡志摩町百目木の南側、雷山神籠石の同県前原市多久一帯に戻り、景行天皇(沙本毘古命→狗古智卑狗)→倭建命→倭男具那命(狗奴国王)は垂仁天皇の皇后佐波遅比賣命→沙本毘賣命(宗女壹與)を奪い邪馬臺国と称す。
 邪壹国伊都国連合に与した斯(セマ→サバ)国、邪(ヌガマ→ヤバ)国(卑彌呼の出生国?)、投(タグマ→タヌバ/タギマ→タジマ)国等の海民国(~馬国)の何れもが二分裂、それは邪馬壹国伊都国連合自体が分裂した事をも示唆する。それが故、女王卑彌呼の宗女に対する呼称が、「臺與」「壹與」と混乱し、国名が邪馬国から邪馬国が領域を拡げると、邪馬国系が東遷を始める。
 
 例えば、海驢(あしか→あししか)=足鹿(海馬)を船とすれば、地方に拠っては逆転することもあるが、人が牽く荷を担いだ驢馬(ろば)→艫(とも)=船尾=随伴者(とも)、船首(みよし・へさき)=舳(へ)には、航海の無事を祈願した持衰(じさい)=御先(みさき)が坐す。

ハム=巫女を出す国とした不彌(はみ)国と関係があるのだろう。蛇類の総称「ハミ」と同語源「噛む・食む」。鱧=古名「ハム」、ハモ科海産硬骨魚。体形は鰻形で、全長2㍍に達することも。吻(ふん)は尖り、口は大きく鋭い歯を持つ。背部は灰褐色、腹部は銀白色。体は滑らかで鱗がない。青森県以南沿岸部に産し、関西では鱧料理として珍重される。北日本で穴子。
 飯匙倩(はぶ)=クサリヘビ科の毒蛇。沖縄諸島・奄美(あまみ)諸島に分布。全長2㍍に達し、頭はほぼ三角形、飯を盛る匙(さじ)形でマムシに似るが、頭部背面の鱗は小さい。樹上や草陰に潜み、人畜を咬む。攻撃性が強く、猛毒をもつ。奄美・沖縄諸島には太く短い別種ヒメハブも分布。

鶴岐(⇔鶴美)=伊邪那美と伊邪那岐と云う陰陽の神と同様、姨(おば)の倭比賣命(鶴美)から、成人男性の倭建命(鶴岐)に転生する。

佐波遅比賣命=垂仁天皇にも「伊理毘古」とあり、母系制に於て、婿入り先の佐波遅比賣と離婚し、奪い取った御子を継子として垂仁天皇の後添い弟比賣が養う。時系列的には逆だが、「記紀」海幸彦の、山幸彦と豊玉姫が夫婦(めおと)となり、豊玉姫が産んだ葺不合を山幸彦の後添い乳母(玉依姫)が妹背(妹と兄)として養う。詰まり、父系(兄→弟)と母系(妹→姉)の夫婦(姉と弟)となり、御子を生す。
 例えば、「記」邇芸速日命が先住民、那賀須泥毘古の妹、登美夜毘賣を娶り、宇摩志麻遅命を生む事と、「記」末弟の若御毛沼命(神武)の東遷した後、山神が土地の娘に生ませた神の子、七乙女中の長女(姉)を正后として娶り、即位するのと同様。

「記」四姉妹(「紀」五姉妹)=美知能宇斯王)の娘、氷婆州比賣命、次に弟比賣(沼羽田入毘賣)命、次に歌凝比賣命、次に円野比賣命、併せて四柱とある。「紀」十五年春二月乙卯朔甲子喚丹波五女納於掖庭、第一曰日葉酢媛、第二曰渟葉田瓊入媛、第三曰真砥野媛、第四曰薊瓊入媛、第五曰竹野媛の五女とする。 

天照大神=豊鋤入日賣命が巫女として祭祀したとすれば、天照大神は男性神(太陽神)だったと思われる。その後、髪の毛が抜けてお祀りできなくなったと在り、その御魂を倭姫命に移すと太陽光を映す女神天照大御神(鏡)となる。
 初め、天津日高日子番能邇邇芸命の天降りを先導した男性の猿田毘古と、伴(とも)の女性天宇受賣命が、目的地の九十(くしふ→くじゅう)の山に着くと、逆転し、先導(先達)が女性の天宇受賣命となり、猿女君の名を負う
とされる。

~馬国=「距離の感覚」項で述べた如く、「馬」と「海」が上古音では近似音とされる事から、「私説」旧くは草原を走る馬を海原を走る船として擬えられており、それが故、一日で馬が走る平均距離と船のそれが略同等に設定されたとした。

邪馬国=狗奴国官狗古智卑狗(山幸彦)の後添いだろうか、宗女壹與(妹玉依姫)が卑彌弓呼(葺不合)を養育し、国王となった後、国名として称した。尚、「記紀」との略関係は以下と考えられる。

 伊都国(旦波道主王娘兄比賣と弟比賣=倭人と垂仁天皇=伊都国)
   ↓支配服属させる  *垂仁=前69~後70 倭国王帥升?
 奴国(沙本毘賣→神功皇后) → 狗奴国として分裂(景行→妹倭比賣→小碓命→仲哀天皇)
   ↓大碓命を東国へ追い払う(山口県佐波郡徳地町八坂→飛鳥→群馬県佐波郡)
 邪馬壹国連合の女王系(佐波遅比賣→八坂入姫命)と伊都国(大碓命→成務天皇)

持衰(じさい)=「魏志倭人伝」其行來渡海詣中國、恆使一人不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人。如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病遭暴害、便欲殺之。謂、其持衰不謹。


  1. 2017/02/03(金) 00:36:00|
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◇娑麼

景行熊襲討伐図 
 先述の如く、福岡県内の地名「道目木」には神籠石を伴うが、何故か、一つだけ福岡県東端の京都郡(現みやこ町)勝山町、周防灘を望む御所ヶ谷神籠石には、ずっと北側、同県北九州市小倉南区徳力(とどろき→とづろき→とくりき)以外、道目木・百々や轟(木)は見えない。
  当初、斯馬国や已百支国が管理した長戸(水道)には沿岸航海民の家船が屯し、一大率の武官等が常駐したが、海退や土砂の堆積で使えなくなり、①伊都(yi-du/yi-do)→厳(いづ)→出とされる。狗奴國→邪馬国の攻勢で、その伊都国も東遷、「記紀」筑紫君磐井(竺紫君石井)の乱等を経て、位置関係が変化、後の筑紫(白日別)の一部=糸(いと)=怡土となる。

 「記紀」日向(ひなた)峠付近から南九州へ追われた「轟(木)」を熊襲(熊曽)とし、瀬戸内海や日本海沿岸部を東行した「道目木」「百々」等を東国へ追われた蝦夷とし、そうした経緯を垂仁天皇の皇后佐波遅比賣命と、その兄沙本毘古命の謀反や、景行天皇(小碓命)の熊襲(熊曽)や蝦夷等、異民族の討伐として記述する。

 邪馬壹国の前代、海民は北部九州から長門を経て日本海沿岸部に拡がっていたが、垂仁天皇(奴国王)が旦波美知能宇志王(投馬道主王)の娘を娶ると、(アスィシカ→アシカ)と奴国の連合委奴(ワニ)国として成立、70~80年を経た後、投(たじま)国は新たに渡来した伊都国系の男子を婿とし、争乱の後、邪壹国伊都国連合が成立する。
 おそらく、「紀」謀反を起こした皇后の兄を伊都国の副官泄謨觚(せまこ→しまこ)斯馬(せま→さば)国王(後の百済太子嶋君?)として化体、邪馬壹国伊都国連合と和せず南下していた狗奴国王卑彌弓呼と官狗古智卑狗の北上を助けたのか、女王卑彌呼(沙本毘賣)が死した後、宗女臺與は東遷する。尚、「記紀」旦波美知能宇志王娘、比婆須比売命、弟比売命、真砥野比売命を召し入れるとして女系統の変化を示唆する。

 投馬(タグマ)を当麻(たぎま→たじま→たいま)=但馬(たじま)・旦波(たんば)とすれば、海民の投馬国が斯=佐波(さば→せま)=狭(せま)い土地と、雲海上に浮かぶ山頂の如き海上の島(チマ→ジマ)=志摩、針間ちぬま→はりま)の二つに分裂、奴国王兕馬觚(チマコ→ジマコ)の系統の一部は服従せず、狗奴国として南下(くだ)り、対立する。
 
 「景行紀」熊襲討伐発進地、周芳の沙麼にも関連し、兄沙本毘古(大彦忍代別?)と共に謀反を起こした垂仁皇后の佐波遅比賣(沙本毘賣)命の本拠地を「サバ」とすれば、先の福岡県糸島郡二丈町佐波付近が、本来の娑麼で、海際迄、山が迫り、狭い事が国名「斯馬」の由来だろう。
 この熊襲討伐・巡狩の経路を地図上で確認すると、地名「轟(木)」が点々と付随、終着点の福岡県朝倉市杷木町道目木(神籠石)南側の同県うきは市付近から日向から大和に帰還したとする。
 これを宮崎県北部の日向とせず、南下していた景行天皇→小碓命→倭建命が福岡と佐賀県境の日向(ひなた)峠から二丈町佐波付近へ凱旋、福岡県東部、更には周防の娑麼へ宗女臺與(佐波遅比賣→比婆須比賣)を追い払うが、後、白鳥(おおとり)=倭建命として南九州に蘇る。

 「記」母系祖を垂仁天皇(倭母)皇后の佐波遅比賣(沙本毘賣)→旦波美知能宇斯王の娘、比婆須比売、真砥野比売の二系統とし、父系祖景行天皇を大碓命と、小碓命→倭比賣→倭建命等、幾度か変化(へんげ)させる。その理由は南北朝を経て、熊襲(熊曽)や蝦夷等、全てが併合されたため、その前代として初代の神武天皇と10代の崇神天皇の間に欠史八代の天皇を父母と祖父母系統として挟み込み、夫々、後代の天皇へ繋ぎ、そうした矛盾を解消した。

伊都=伊[・ıər][・ıi][i]・都[tag][to][tu]の上古音「伊都(ヤータ)」としたが、中古音や中世音の変化に拠ると、イイトゥ(飯田)→厳(いつ)・五と考えられる。現代北京音には[du(ツ)][dou(ト)]の二種があり、夫々意味が違うとあり、前者[du]=集まる→みやこ、後者[dou]=全体・全てと在り、幾つかの島だったものが繋がり、一つになり、半島化=全体を示唆するのかも知れない。
 後代、中大兄皇子(天智)が百済の亡命貴族「達率」等に造らせた長門城と筑紫の二城は重複記載ではなく、戦局の悪化等の理由で、当初、長門城は雷山神籠石、筑紫の二城は怡土城とおつぼ山神籠石だったが、基肄城と大野城に移ったのかも知れない。

記(紀)=十五年春二月乙卯朔甲子喚丹波五女納於掖庭、第一曰日葉酢媛、第二曰渟葉田瓊入媛、第三曰真砥野媛、第四曰薊瓊入媛、第五曰竹野媛。秋八月壬午朔立日葉酢媛命為皇后以皇后、弟之三女為妃唯竹野媛者因形姿醜返於本土則羞其見返到葛野自堕輿而死之故号其地謂堕国今謂弟国訛也皇后日葉酢媛命生三男二女第一曰五十瓊敷入彦命、第二曰大足彦尊、第三曰大中姫命、第四曰倭姫命、第五曰稚城瓊入彦命、妃渟葉田瓊入媛生鐸石別命、与胆香足姫命、次妃薊瓊入媛生池速別命、稚浅津姫命。
 「古事記」第11代垂仁天皇の后妃として四姉妹が召されたとあり、比婆須比売命弟比売命(沼羽田入毘賣)・歌凝比売命円野比売命が記載される。後者の二人は醜かったために返されて円野比売は乙訓(おちくに)で自殺したとある。こうした事の意味は未だ判然としない。

百済太子嶋君=「雄略紀」六月丙戌朔孕婦果如加須利君言於筑紫各羅嶋産児仍名此児曰於是軍君即以一船送於国是為武寧王百済人呼此嶋曰主嶋(ニムリシマ)也。筑紫の各羅(かから)島で生まれた島君(シマクヌ→しまこ)が百済の武寧王となる。

宗女臺與=女王卑彌呼(佐波遅比賣命→沙本毘賣命)、臺與(比婆須比賣命→沼羽田入比賣)、奴国王(垂仁天皇→品牟都王→本牟智王)、伊都国王(沙本毘古命→大碓命→景行天皇)、狗奴国王卑彌弓呼(小碓命→倭建命)と壹與(景行天皇の妹倭比賣→弟比賣命→円野比賣)と云う関係になると思われる。

海馬(あしか)=「記紀」冒頭の「ウマアシカビヒコヂ」と考えられる。騎馬民族の足が馬で在る様に海民の足を船とし、倭国の海民(鹿)の倭人を足(機動力)を担う国とした。外洋航海民(穂積)と沿岸航海民(住吉)+河民(阿曇)の二系統に分裂、
 当時、通常、馬が一日で進む平均的な距離と船脚を略同距離に設定していたとし、狗邪韓国~對馬国~一大国~末盧国への三度の外洋航海に要する平均日数を予備日や休息日等を含めて10日、帶方郡から狗邪韓国迄の総日数を25日~30日とした。


針間(ちんま→はりま)=「針」の上古・中古音の針[tiəm][tʃıəm][tʃıəm](チェム/チュム)と間[kăn][kʌn][kian]の訓に拠る仮名(ま→ば)に拠る呼称。小(ちま→ちぬま)い、禿(ちび)る→小(ちび)等と同源。後代、土砂の堆積で張り出し、土地が拡がったためか、張間(ハリマ)=播磨(兵庫県の瀬戸内側)、茅渟海(ちぬま→ちぬのうみ)=大阪湾ともされたのかも知れない。尚、足の悪い跛(ちんば)と繋がるのかも知れない。
 尚、景行天皇は吉備臣等祖若建吉備津日子の娘、針間之伊那毘能大郎女を娶り、櫛角別王、大碓命、小碓命(倭男具那命)、倭根子命、神櫛王を生す。その櫛角別王は「クシツヌ→キシツン(岸突)」で、筑紫と呼ばれた博多湾岸(津岸=つくし?)や有明湾岸(地岸=ちくし?)の如く幾つかの河口の吐き出す土砂が足の伸びる如く、櫛状に細長く堆積し、岸が角の如く延びる事。その間に薄く堆積した土砂が扇状に拡がる様子を大碓・小碓の「ウス」は示唆するか。
 倭根子=背負子(しょいこ)をネコとも呼ぶので、土地(やまと)の背負い守るのだとすれば、倭(ヤマ・ト)=八間・台は区画を分ける役所と云う語義かも知れない。尚、本来、倭(やま)で、海幸山幸神話の如く、海民の領域を分ける(区画)と云う意味で使われた思われる。

娑麼(さば)=狭端(さは→さば→さま)・狭間(はざま)で、通説的には山口県佐波郡徳地町鯖・西大津・伊賀地(出雲神社)・大野・八坂・御所野・奈良原か、出自を百済王余璋の皇子琳聖太子後裔を称す大内氏の居処、佐波川河口の同県防府市佐波・多々良付近とも考えられる旧く糸島半島と福岡県前原市の間には狭い水道(長戸→長門)があり、独立した三つ程の小さな島(しま→ちま)に別れていた。また、大内氏には任那系帰化氏族多々良公の裔とする説もあり、福岡県前原市の西側、同県糸島郡二丈町佐波と多々羅、その東側、同県福岡市東区多々良がある。
○佐波良(さはら)神社「神阿多都姫命、佐波良神」。(岡山県真庭郡湯原町大字社字谷口大社1272)境内には後期古墳が分布していた。鉄の生産地域であり、これに支えられたものであろうとある。
○矢川神社「大己貴神、矢川枝姫命」古事記・大国主神系譜中、この大国主神、葦那陀迦(アシナダカ)神、亦名八河江(ヤカハエ→ヤカエ)比売を娶り、生みませる子、速甕多気佐波夜遅奴美(ハヤミカタケサハヤチヌミ)神と出ている(滋賀県甲賀市甲南町森尻310)。
佐和良義神社「加具土神」天兒屋根命『社前石灯籠の銘:明和五(1768)年 (大阪府茨木市美沢町9-27)住所は三島郡玉櫛村、また、澤良宣村の産土神とする。『平成祭礼データ、持撰神名牒』  平群都久宿禰『神名帳考証』 早良臣祖神歟『神社録』
 サハラギ→サワラギの意味については諸説、檜の木に似た椹(さわら)か、湿地帯に咲く菊科の多年草で澤蘭(佐波阿良々木)がある。創建年代は不明。式内社。東奈良遺跡は弥生期~室町期にかけての複合遺跡であり、平原古墳と同系統の方形周溝墓、銅鐸の鋳型等が出土している。
○形部(かたば)神社・佐波良神社(岡山県真庭郡湯原町大字社字谷口大社)境内には後期古墳が分布。鉄の生産地域。


矛盾=当初の目的、都合が悪いのではなく、思想や宗教性等、意識の違う、そうした人々をも、天皇(天照皇祖神)を中心として日本民族としての同一性を持たせる事が目的だったと考えられる。


  1. 2017/01/20(金) 10:02:00|
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(1)斯馬国

  斯[sieg][siĕ][sï]=(字統)机の上にものを置いて、これを拆く
  馬[măg][mă(mbă)][ma]=草原を駆ける馬→天翔る鳥=帆に風を受けて海上を航行する船

 漢字音を併せると、シェッマッ→セマ(サマ→サバ)で、末盧国の東北、佐賀県唐津市浜玉町飯塚・大野・鳥巣・半田(はだ)・横田・山田、玉島神社・大村神社の在る玉島川沿いから福岡県糸島郡二丈町佐波・福井(加茂神社)等、海進に因る海岸線が後退した一帯の狭間(さま→せま)に比定する。
 末盧国の比定域、半田川沿岸佐賀県唐津市半田字天神ノ元の天神ノ元遺跡(弥生前期末~後期)の東北側同市浜玉町谷口字立中の谷口古墳北側、福岡県糸島市二丈鹿家付近の沿岸航海民は家船で生活したのか、円墳(年代不詳)はあるが、住居跡の記述はない。その東側、同市二丈石崎の一貴山遺跡、曲り田遺跡には住居跡がある。更に東側、室見川沿岸部の筑前国早良郡早良(さはら)郷=福岡市早良区有田・四箇、他にも山際の湾奥や河岸、谷間の狭隘な土地に同地名がある。

  山口県佐波郡徳地町(さば)・鯖河内・大野・八坂・奈良原 *佐波川沿岸
  山口県防府市佐波・大野・仁井礼・江良・半田 *佐波川沿岸
  広島県福山市佐波町・奈良津町 *芦田川沿岸
  京都府舞鶴市佐波賀・朝来 *山際の海岸
  岐阜県羽島郡柳津町佐波奈良 *境川沿岸
  滋賀県近江八幡市佐波江町・生須町・金田・白鳥町・長田(をさだ)町・八木町 *日野川河口
  石川県鹿島郡(七尾市)能登島町佐波  *四村塚山麓の日本海沿岸
  埼玉県北埼玉郡大利根町佐波・道目(ドウモク→どうめ) *利根川沿岸部
  群馬県佐波郡玉村町飯塚・福島・八幡原、同郡赤堀町鹿島*鏑木川沿岸
 
 「国名と官名」項でも述べた如く、伊都国の副官泄謨觚(セマコ)は、この国の王で邪馬壹国連合の一員として伊都国の官名を列ねるが、奴国の官兕馬觚(チマコ→ジマコ)は、一大率の副官卑奴母離を受け容れて服属、祭祀と統治権を剥奪された。その同源の地名「チマ(ジマ)→チバ」には芝・柴(シバ)・志波・千葉(チバ)等が在る。

 狗奴国との戦いの最中、女王卑彌呼が亡くなると、「記紀」海幸山幸説話の如く海民(海馬)投馬(タギ゙マ)国等が「チマ=小」「セマ=狭」の二系に別れたのだろう。その事と関連して、「記」垂仁天皇は旦波美知能宇斯王の娘、比婆須比売命、真砥野比売命、弟比売命を召し入れるとし、「紀」景行天皇の熊襲討伐経路に残る地名「轟(木)」は、双子の御子、大碓命の弟、小碓尊(日本武尊)の蝦夷討伐経路には見えない。
 ただ、福井県吉田郡永平寺町(どめき)と在り、私説の景行天皇熊襲討伐の始発地とした福岡県糸島市二丈佐波西側の同県糸島郡志摩町道目木の南、同県前原市雷山(雷山神籠石)、同県直方市道目木の南、同県嘉穂郡(飯塚市)頴田町鹿毛馬(鹿毛馬神籠石)、同県朝倉市杷木町道目木(杷木神籠石)等、他にも以下がある。

 
青森県上北郡横浜町百目木(どめき)、秋田県大館市道目木、山形県山形市百目鬼、岐阜県武儀郡武儀町下之保百々目木(どどめき)、宮城県気仙沼市百目木(どうめき)、同県加美郡中新田町百目木、同県本吉郡本吉町道貫(どうめき)、福島県安達郡岩代町 百目木、茨城県 ヒタチナカ市道メキ、千葉県袖ヶ浦市百目木、愛知県西尾市道目記町、同県岡崎市百々(どうど)、同県豊田市百々。
 四道将軍と関係するか、新潟県妙高市百々(どうどう)、石川県加賀市百々(どど)町、山梨県南アルプス市白根町百々(どうどう)、京都府京都市上京区百々(どど)町、同市山科区川田百々、同市西京区樫原百々ヶ池、同市山科区西野山百々町、岡山県久米郡柵原町百々(どうどう)、同県苫田郡加茂町百々。

大村神社=旧く知識無怨寺と称す。天平12(740)年、政治の乱れと天変地異を憂い、藤原式家広嗣が九州で反乱を起こすも、志ならず値賀島で捕らえられて(佐賀県東松浦郡玄海町値賀川内?)、唐津市浜玉町五反田(ごたんだ)の大村で斬首された。以来、天変地異が絶えず、後、肥前守を任ぜられた吉備真備が、この五反田郷に来て広嗣の霊を弔うために建立したもの(浜玉町史跡より)。長崎県東彼杵郡川棚町五反田郷、同県大村市や大村湾等も関連が在ると思われる。*大村(おほむら→おほみら)=大海羅、或いは、大臣(おほおみ→おほみ)羅
 吉備真備(695~775)=奈良時代の官人・文人。本姓、下道真吉備。717(養老1)年遣唐留学生として入唐、735(天平7)年に帰国、「唐礼」「大衍暦経」等を持ち帰る。橘諸兄に重用されたが、後、九州に左遷される。その間、遣唐副使として再び渡唐。恵美押勝乱の平定に貢献。正二位右大臣に累進。世に吉備大臣と云う。編著「私教類聚」「刪定(さんてい)律令」等。

佐波=岡山県真庭郡湯原町大字社字谷口大社の佐波良神社(神阿多都姫命、佐波良神)は山深い谷間に在る。静岡県賀茂郡西伊豆町仁科の佐波神社(積羽八重事代主命、應神天皇)は山際の海岸沿いの狭い土地に在る。滋賀県伊香郡木之本町川合の佐波加刀(さはかと)神社(日子坐王、大俣王、小俣王、志夫美宿禰王、沙本毘古王、袁邪本王、佐波遲比賣王、室毘古王) は山中の谷間にある。
 福島県いわき市常磐湯本町三函の温泉神社/佐波古神社(少彦名命、大己貴命)は、尾根に囲まれた盆地に在る。
 延喜式内社であり、社家に伝わる「神幸由来記」等の古文書参考書に拠れば、神代の昔、湯の岳が神体山であって信仰の山である。上古、逸早く少彦名命の鎮座あり、後に日本武尊の進駐の折、大和国、現在の奈良県三輪大社の主神、大物主大神「大巳貴命」が合祀され、以来二神が郷民によって祀れた。白鳳二年九月九日、湯の岳より下山して里宮として遷座、三遷して現在地に遷っ たのが延宝六年とある。

天神ノ元遺跡=甕棺は合口甕棺だが、上甕は身が大きく破壊されており、口縁部の一部のみ残存する。下甕は口縁部が打ち欠かれた中型の甕棺で、上半部に絵画が線刻され、沈線で区画された空間に横を向いた鹿と鉤状の線刻が、夫々、一つずつ描かれる。現存する区画は4つだが、7区画だった様で、鹿は、その区画、夫々に直線で表現された頭部と弧を描く胴部、胴部から直線的に延びる前足・後足、何れも「J」状の角を持つ牡鹿が描かれる。
 20号甕棺は金海式と呼ばれる甕棺で、弥生時代前期末に位置付けられる。甕棺に鹿を描いた例としては、県内初例であり、2頭の鹿を描いた福岡県吉武高木遺跡出土甕棺とともに国内最古段階の絵画土器の一つである。その東北側、福岡県糸島市二丈鹿家にも年代のハッキリしない円墳があるらしい。

四箇(しか)=茨城県稲敷郡桜川村四箇、千葉県印旛郡栄町四箇、兵庫県 龍野市龍野町四箇(よっか)等、何れも河川沿岸部の土砂が堆積したと思しき所にある。尚、四日市(よっかいち)・八日市(ようかいち)・八鹿(ようか)等も川沿いの狭隘な低湿地に多い地名。

「チマ→ジマ」=中島(なかしま/なかじま)と訓みわける理由で、おそらく、島(チマ=小)、州(セマ=狭)と云う違いがあったと考える。おそらく、奴国の副官、兕[?][zii][sï]・馬[măg][mă(mbă)][ma]・觚[kuag][ko][ku]と伊都国の副官、泄[siat][siєt][sie]謨[mag][mo(mbo)][mu]の前者は海上に浮かぶ島(ちま)、後者は河川の中州や山際の海岸(せま)等の違いを示唆する。尚、縄文海進期、房総半島も霞ヶ浦付近には水道があったとされるので、千葉(ちば→ちま)として良い。

海馬=海[məg][hai][hai]と馬[măg][mă(mbă)][ma]と在り、上古音が略同音にされる事からも判る様に、旧く草原を走る馬と海原を走る船と云う認識だったと思われる。尚、「記」宇摩志阿斯訶備比古遅(うまあしかびひこち)神とある。

熊襲討伐経路
=「古事記」倭建命の熊曾討伐とされる。日本の名著「日本書紀(中央公論社)」所載の景行天皇熊襲討伐の経路図を参照した。 蝦夷討伐は、当初、遠賀川周辺部に逃れた卑彌呼の宗女「臺與(タィヨ→とよ)」の一族を討伐した事を東国の事として記述されたと考える。また、「紀」垂仁天皇は丹波の五女、日葉酢媛、渟葉田瓊入媛、、真砥野媛、薊瓊入媛、竹野媛を召し入れるが、五女の竹野媛は醜いと返すとある。一方、「記」比婆須比売命、弟比売命、歌凝比売命、円野比売命、併せて四柱。しかし、比婆須比売命と弟比売命の二柱を留めて、その妹の二柱はとても醜かったので故郷に送り返したとある。こうした違いにも何らかの意味があるのだろうが、未だ判然としない。



  1. 2017/01/16(月) 08:36:00|
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◇残余の傍国

 残余の傍国は以下の如くあり、邪馬壹国と伊都国との位置関係や支配関係は如何なるものか。殆ど資料はないので、使われる漢字の音や、その語義から推測する。

  自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
  次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支(郡支)國 次有彌奴國 次有好古都國
  次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 
  次有鬼國 次有爲吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 
  次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡。其南有狗奴國男子爲王 其官有狗古智卑狗不屬女王
  
 陳寿は、女王国より以北の国々は、その戸数や道里を略載できるが、その餘の傍国は遠絶で詳らかにできない。とし、道程として記載された国々、對海国・一大国・末盧国・伊都国・奴国・不彌国は、狗邪韓国の東南ではなく南側に属すと認識したので、女王国から見ると北側に属す事になる。その後、次に斯馬国有り~(中略)、次に奴国有り、これが女王国の境界尽きる所、その南に狗奴国有り、男子為す王、その官に狗古智卑狗有り、女王に属さず。とする。

 これも陳寿の筆法か、奴国を二回記載、「~次奴国有り、これ女王国境界が尽きる所」の奴国と、道程に記述された「奴国」を同一国とし、その南側に狗奴国があるとすれば、末盧国を起点に斯馬国から東回りで、奴国に戻り、そこから逆に烏奴国を起点に西回りする等を示唆すると考えられる。詰まり、その中央部の最南部に西から奴国と邪馬壹国の順に横一列に並び、その北側に西から伊都国と不彌国の順に横一列に並び、残餘の傍国は、その東側と西側に広がるとせざるを得ない。また、投馬国だけは別ルートと云う事からすれば、連合国の一員だが独立国だろう。他にも以下の記述が在る。

  夏后少康之子封於會稽 斷髮文身以避蛟龍之害 今倭水人好沈沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽
  後稍以爲飾 諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差 計其道里當在會稽東冶(東治)之東
 
 其風俗不淫 男子皆露紒以木緜招頭 其衣橫幅但結束相連略無縫 婦人被髮屈紒作衣如單被穿其中央貫頭衣之

 夏后少康の子、会稽に於て封じられるに、断髪文身、以て蛟龍の害を避けさせた。今、倭水人は上手に潜水、魚貝類を捕る。また、文身で以て大魚水禽を厭わす~云々。その道里を計ると、当に、その会稽東冶(東治)の南側や北側でなく東側に在る
 陳寿が女王国領域を会稽東冶(東治)の東側に当たる所とした理由は、会稽付近に住む人々と、女王国に服属する倭人だけではなく、列島沿岸部に住む全ての倭種の生活習慣等がよく似ていると云う認識があった事が、その一つと考える。
 問題の「東冶」と「東治」は、大陸東海岸の会稽(現・上海の北側)に封じられた夏后少康が東海岸に住んだ海民や蛋民を治めたとすれば、夏后少康之子が会稽の東を治む、当在会稽東治=会稽の東を治めた、当に、その東側に在る。また、方向性ではないが、下記の如くも記述される。

  自郡至女王國萬二千餘里 男子無大小皆黥面文身 自古以來其使詣中國皆自稱大夫
  其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子爲王名曰卑彌呼

 帯方郡より女王国に至る一万二千余里。その国の男子、大(人)も小(人)も皆、顔に黥面、身体に文身をした。古より、此迄、その使い中国に詣で皆大夫と自称する。その国、本、また男子を以て王とし、70~80年住まう。倭国乱れ、年を歴て相功伐、共に一女子を立てて王と為す名卑彌呼となり、この前代、70~80年と、この邪馬壹国は同じ為政者や支配関係でないと判る。
 次回から傍国の名称に使われる漢字音や、その意味を考え併せて分かる限りだが、国名が云わんとする事や、その比定地を推測してみたい。

二回記載=「魏志東夷伝」馬韓在西。其民土著、種植知蠶桑作綿布。各有長帥、大者自名爲臣智、其次爲邑借。散在山海間無城郭。有爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟涿國、臣濆沽國、伯濟國、速盧不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、月支國、咨離牟盧國、素謂乾國、古爰國、莫盧國卑離國、占離卑國、臣釁國、支侵國、狗盧國、卑彌國、監奚卑離國、古蒲國、致利鞠國、冉路國、兒林國、駟盧國、内卑離國、感奚國、萬盧國、辟卑離國、臼斯烏旦國、一離國、不彌國、支半國、狗素國、捷盧國、牟盧卑離國、臣蘇塗國、莫盧國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、楚山塗卑離國、一難國、狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國、凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戸。辰王治月支國。臣智、或加優呼臣雲、遣支報安邪、踧支濆臣、離兒不例拘邪、秦支廉之號。其官有、魏率善、邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長。*内=[入+冂]

 弁辰亦十二國。又有諸小別邑各有渠帥。大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借。有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國樂奴國、軍彌國、軍彌國、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戸路國、州鮮國、馬延國弁辰狗邪國弁辰走漕馬國弁辰安邪國馬延國弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國。弁辰韓、合二十四國。大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸。其十二國屬辰王。辰王、常用馬韓人。作之、世世相繼。辰王不得自立爲王。

 馬韓では「莫盧國」、弁辰韓では「馬延國」を二回記載するので、これも奴国を二回記述する事と同様、陳寿の筆法かもしない。また、国数も一つを除外、馬韓は五十四国。弁辰韓は軍彌國の飛び地「弁軍彌國」を除外し、合計二十四国。また、辰王に属す12ヶ国とすれば、弁辰楽奴国と考えられる。
 尚、馬韓の「~卑離国」は、韓国語で城の語義を持つ「伐(ボル)」の漢字表記かも知れないとする研究者も居るが、「散在山海間無城郭」とあり、中央部から離れた卑しい僻地(縁=へり)で、羊等を放牧する遊牧民の国と考えられる。

西から奴国と邪馬壹国=「方向の感覚」項では、投馬国も含めたが、投馬国は別系路と思しき水行20日で至るとされるので、道程で述べられる国々とは同列にはできないと思われる。ここで訂正する。

会稽=浙江省から江蘇省に跨る地域。中国南の浙江省紹興市南東の会稽山とすれば、呉王夫差が越王勾践(こうせん)を降した地。夏の禹(う)が諸侯と会した所と在り、その東側とすれば、大陸の東沿岸部の海民や家船衆、東南岸部の閩粤(びんえつ)と考えられる。
 「史記(越王勾践世家)」会稽の恥=春秋時代、会稽山で越王勾践が呉王夫差に降伏したが、多年辛苦の後に夫差を破ってその恥を雪いだ。
 「中国歴史地名大辞典」漢、冶県を置く。後漢、東侯官と日う。故域は、今の福建省閩侯県東北、冶山の麓に在ると云うが、地名「東冶」は、本当に在ったのか。尚、閩粤の人々が身体に文身(入墨)をしていたとすれば、閩 [mıən][mıən(mbıən)][miən]と同音の「閔(あわれむ・うれえる)」と云う姓が在り、僻地の卑しい姓とも考えられる。春秋時代の(大陸東岸、黄河河口南部の山東省付近)の人、閔子騫(びん・しけん)、名「損」、孔門十哲の一人とある。
 文(あや)=物の面に表れた様々な線や形、特に斜めに交差した模様。入り組んだ仕組。ものの筋道や区別。文章等、表現上の技巧。言い回し。節回し。経糸(たていと)に緯糸(よこいと)を斜めにかけて模様を織り出した絹。斜線模様の織物。綾地(あやぢ)。曲芸の綾織の略。
 「孔門十哲(こうもんじってつ)」=孔子の10人の高弟。徳行に優れる顔回・閔子騫・冉伯牛(ぜんはくぎゅう)・仲弓、言語に優れる宰予・子貢、政事に優れる冉求(ぜんきゅう/冉有)・子路(季路)、文学に優れる子游・子夏。
 「魯」=中国、西周・春秋時代の列国の一つ。周公旦の長子伯禽が封ぜられる。旧く、日神の祭祀があったと云われる。後、分家の三桓氏が実権を握り、頃公の時、楚に滅ぼされた。孔子の生国。大陸東沿岸部、山東省の別称。

自郡至女王國萬二千餘里=帶方郡より一万二千里で女王国に至る。帶方郡から朝鮮半島沿岸部の水行七千里と狗邪韓国から末盧国迄の水行三千里を合わせると、末盧国からの女王国迄は約二千里となる。これ以外に里程はない。これからすれば、南至水行十日と陸行一月も要するはずがないと云うのが大凡の見解だろう。だが、倭人の住地域を帶方郡の東南とした陳寿が狗邪韓国と邪馬壹国の位置関係を、「その北岸」とした事、不彌国迄を里程とした後、南至投馬国水行二十日、南至邪馬壹国水行十日陸行一月と日程にした理由等、陳寿の意識や文脈を全く無視した読み方だろう。


  1. 2017/01/05(木) 08:57:00|
  2. 7.某国考
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今年もありがとうございました

今日は12月23日。
残すところ今年もわずか1週間となりました。
今年も当ブログを読んでいただき誠にありがとうございます。
拙い文章でもっと読みやすくを心がけてはおりますが
どうしても長くなってしまったり、説明不足となってしまったり
本当に本意を伝えるのは難しいと感じています。

さて、そろそろ次回更新予定の項も煮詰まって参りましたので
年明けには更新したいと思っています。

また何か不明な点や疑問点などありましたら
遠慮なしにコメントを残してください。

では、皆さまよい年末年始をお迎えください。

  1. 2016/12/23(金) 11:14:56|
  2. おしらせ
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次回の更新

いつも読んでいただきありがとうございます。

前回の「ことのは」での更新で一段落つきましたので
次回は邪馬台国の某国についての比定・検証となります。

最近では月曜日に更新しておりましたが、某国の地名について再検証しておりますので
少し時間を置きたいと思っています。

またご意見等ございましたら、どんなことでも構いません。
遠慮なくコメント欄へ書き込んでください。

では、よろしくお願いいたします。


未万劫哉




  1. 2016/12/05(月) 08:47:24|
  2. おしらせ
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◇丸(まる)と原(ばる)

 >(2)同じく九州の「~丸」地名も、この伐(Pur,Por)が「Mur、Maur、Mar」に音が変化したもので、韓国語の村(マゥル)と同語源ではないか。(3)「伐」の持っていた「城」という意味が、~原(ばる・はる)の方では、殆ど失われたが、~丸の方には残り、後世、「本丸」「二の丸」の様な城郭の一部を表す名称として残ったのではないか。

 人と戈の合字で、征伐する、木を伐る等の語義を持つ伐(Pur・Por)には城郭や城壁の語義としますが、日本語では子音語尾が「~つ)」となり、伐(ばつ)ですので、「パル→バル→マル(丸)」とは言い難いでしょう。
 例えば、円形=「丸」=マワル→マゥアル→マール(回・廻)と転音とすれば、伐(Pur/Por)=防御的な環濠集落や城郭の堀割(からぼり・みずぼり)に近い語義と考えます。これに順うと、船名の「~丸」は、戦艦の場合は城郭的になりますが、漁船や貨物船と客船等は海獣や波浪からの守護でしょう。また、東アジアでは、海神を女性と認識しますから、陰陽を合わせて男性の尊称「~丸(麿)」にされたとも考えられます。
  それは字形「城=土で成す」から陰性の土壇に建つ陽性(男)で、本丸=太郎丸(主)、二の丸=次郎丸(従)とすれば、地名の場合、人が住み、耕作地や放牧地にされた順序や時期かも知れません。
 もう一つ、椀(まり)=半円形で、水や酒等の液体を容れた木製食器は、張(はる→ばる→まる)と云う転音でしょう。
 
 「ラ」=等・羅は単一点ではなく、多数・区画を表す語で、新羅(しぎ)・百済(くだ)等、集まる→凝(こる)→郡(こほり)→群(むがる)→村(む)です。奈良(な)は均して平(なら)す事に関係し、京都(みやこ)を開いた所になります。
 「日本書紀」阿利那礼(ありなれ)河=天の川、「ナレ」=蕩蕩と波立たずに流れる大河を云う。鴨緑江と解されたが、新羅の国都慶州付近の北川の古名、閼川(ありなる)とされる。

 >この伐(Pur,Por)が「Mur、Maur、Mar」に音が変化したもの~云々。これをP音→B音→mB音→M音と云う転音とすれば、良いのですが、こうした言葉を邪馬臺国期や「記紀」成立期とすれば、「漢和大辞典」に拠ると、使われる上古音や中古音にはP音やF音もあり、地形や集落の「ハル・バル・マル」にも同音系の言葉があっても不思議ではないし、意味的な違いもあったと考えられます。
 例えば、殆ど同音の淵・渕(ふち)と縁(ふち)等、基本的な語義は「区切り」や「区別」を示唆しますが、語義のニュアンスは異なります。前者は深さの変化や流れの違いを示唆するので、中央が窪んだ鉢(pati/fati→hati)等と同系、後者は川縁(かわべり)→端(hata→kata)や別(petu→betu)等と同系とすれば、旧くは、山や河川も境界にされ、アイヌ語で、ベツ(betu)=暴れる川、ナイ=暴れない川、ペ(pe)=飲めない水、ワッカ=飲める水(湧水→若水)も区別する事に関係があるのかも知れません。
 詰まり、アジア大陸全体、特に東アジア等の言葉とも何らかの繋がりや関係性があっても不思議ではないし、況んや、一衣帯水の関係と云える日韓の言語に繋がりが在って当然でしょう。但し、古来、朝鮮半島内で全ての人々が同言語を使っていたのかは甚だ疑問で、それは日本の場合も同様でしょう。「魏志東夷伝」倭人条の記述からすれば、朝鮮半島南部の島々も対馬や壱岐が同一の領域として認識されていたと推測されますので、国境線も、現在と全く同じではありませんので、当時、活発な交流が在ったとしても、その後、国境が変化し、民族の移動したかも知れません。そうした経緯は、意識や宗教思想の変化を促し、言葉を変化させる動機になります。 (了)

海神を女性=西洋の帆船等は女性象を舳先に掲げる物がある。この場合、海神は、ギリシア神話に登場する男性のポセイドンと云う認識になる。日本でも男性の海士(あま)と、女性の海女がおり、分布的な特徴があるのかは分かりませんが、二通りの認識が在る様です。
 また、ポセイドンは馬神とされ、私説では、馬(男性のトーテム)=海人の船とした。

城(土で成す)=黄土を叩き固めた版築、土壁や土壇の築造法で、板で枠を作り、土を中に盛り、1層ずつ杵(きね)でつき固めるもの。中国の竜山文化に始まり現在迄、存続する。旧くは万里の長城等の城壁も版築で造られた。
 竜山文化=中国新石器時代の二大文化中の仰韶(ぎょうしょう)文化から発展した。山東省章丘市竜山鎮の城子崖遺跡によって命名。黒陶=中国先史時代(竜山文化期)の黒色土器。轆轤製で、表面は磨研され漆黒色。器形は変化に富み、後の殷周青銅器の祖形をしのばせる。

順序や時期=耕作地の場合、同時に成熟するのを防いだり、種類の違う種蒔きの時期や順番、放牧地の場合、春先、最初に放牧する所や二番目等の順番。ただ、三郎丸、五郎丸等、単独の場合、他は消失したか、三郎=荒ぶる・寂びる、四郎=背(しろ)・代(低湿地や河原)、五郎=五流(五つの流刑)、六郎=轆轤(ろくろ=陶器職人が住んだか)、九郎=刳(くり・くる=木地師が住んだか)、盆地や窪地等の当て字と考えられる。

アイヌ語=「p」と「b」の区別が無いので、別(べつ)=「pet」=「bet」として良い。また、「k」と「g」、「t」と「d」の区別も無いと云う。


  1. 2016/11/29(火) 16:39:23|
  2. 4.日本語と古朝鮮語
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◇洞(ほこら)

 >金沢博士は言及していないが、江戸期の福岡藩にも村を束ねたより大きな行政単位としての触(フレ)があった。また、長崎県の壱岐にも集落「~触」がある。また、日本語の「郡」は大化の改新の直後には「評」と書かれていた。これも「坪」地名との関連性がありそうである。

 朝鮮語由来とされる触(ふれ)も村(むら)の転音かも知れないとしました。また、郡(こほり)と同義という評[bıăŋ][bıʌŋ][p`iәŋ]=古訓、理(ことはり)、数ふ、判る、諮る。「解字」併(あわせる・ならべる)=抨と同系字。「語義」論う、善悪・可否・価値等を判断し、論定する、論理的に物事の良し悪しを公平に捌くとあります。詰まり、郡(こほり)や同訓の「氷」、凝(こ)る等と同義の、徐々に決める。集約して固まる事になります。
 評(こおり)と同系字の坪(Pyong/Tur・Pur・Pari・Por・Pori)は、秤(計・測)=定める事からすれば、条里制の「里」や「町」と同様、田畑を有する行政区画かも知れません。先に異言語かとした「Tur」が「ツル→ツヅ→ツブ→ツボ」と転音しました。

 >勿論、「洞Kor)」との関連も注目すべきである。更に、魏志倭人伝の傍国の一つとして「巴利国」があるが、これも何か関係があるのだろうか。上記の諸論で述べられている語源説を、私の仮説に適用すると、(1)九州の~原(ばる・はる)地名は、古代の三韓では、城、集落を表した伐(Pur,Por)と同語源ではないか。

 洞(Tong/Kor)の前者は、漢字音[duŋ][duŋ][toŋ]に拠る日本語「ドウ」と同系です。後者の「Kor」は和訓の「ほ・こら」と同系語で、同「洞(くき)」は山の洞窟=岫(くき)、同訓の漏(くきし)、洞海(くきのうみ)=両端が開いた水道や茎(くき)の如く、竹筒と同様、両端が開いた見通しの利く谷間や川端になります。語頭の「ホ」=発(はつ→ほつ)=穂先や端(はし)になります。
 もう一つ、洞(ほら)は、掘・彫(ほる)や刳(くる)=片方の口が開いた穴(あな)と同源で、万葉仮名「カ行」は上古音や中古音「H系」が使われますので、後代、コル(kor)→ホル(hor)→ホラ(hora)とハ行に転音しました。
 長野県松本市洞(ほら)、岐阜県吉城郡宮川村洞(ほら)、滋賀県伊香郡高月町洞戸(ほらど)、京都府京都市右京区北嵯峨洞ノ内町(ほらのうち)町、兵庫県三田市洞(ほら)、和歌山県日高郡印南町上洞(かぼら)、鳥取県鳥取市洞谷(ほらだに)、高知県高知市洞ケ島(ほらがしま)町、熊本県下益城郡砥用町洞岳(ほらおか)等、山奥の谷間や谷間の迫った海岸、両端が山並みの平地等に見られます。

 白川静編「字統」に拠ると、「巴利国」に使われる漢字、巴([păg][pă][pa])=器の把手の形。「説文」蟲なり、象を食う蛇(はむし)なりとします。同系の漢字、邑(むら)[・ıәp][ıәp][iәi]=囗(国構・イ)=城壁を巡らせた所。巴=多くの人が生活する→区画や容量が大きい=口の大きい蛇。利([lıed][lıi][li])=禾と刀で、金文には犂鋤や犂の形に見える。禾稲を刈り、収益を得る=利益とします。
 当時の上古音を併せると、「パェッリェッ→ペレ→ペリ」になり、墾・張・治(ハル→ハリ)は河口に土砂が堆積した扇状地の端(はし→はじ)を治水して開墾した治の国・墾の国となりそうですが、音的には縁(へり)国で、よく似た和訓、原・春・丸(ハラ→ハル→バル→マル)は、開けた河口や川縁の平野だけではなく、小高い山縁の地形にも使われますので、傍国「為吾国」の「為」=象を調教するとありますから、おそらく、象(ぞう)を食む蛇が象を使役する人々を水路や河川の治水工事に従事させたのでしょうか、平地の少ない海岸縁か、山手に段々畑や棚田を有す国と考えられます。  
 
触(ふれ)=ムラ(mura)→ムレ(mure)→ムブレ(mbure)→ブレ(bure)→プレ(pure)→フレ(fure/hure)。また、佐賀県西北部の「~免(めん→め→べ)」、長崎県島原半島の「~名(べい→めい→めう→みょう)」等、行政区画的な語尾を持つ地名がある。これらにも何らかの意味があると思う。

町(ちょう)=土地面積の単位。1町は10段。令制では3600歩(太閤検地後は3000歩)、約99.17㌃。「丁」とも書く距離の単位。1町は60間。約109㍍強。平城京・平安京に於ける長さ、及び、面積の単位。400尺、及び、400尺平方。1坊の16分の1。行政区画上の市に次ぎ、村の上に位する地方公共団体。市街の区切り。中世都市では商工業者が構成した地域的自治組織。江戸吉原の事(おちょう)。
 町(まち)=田の広さや区画の単位。宮殿、または邸宅の内の区画。特に、いくつかの殿舎などの連なって成り立っているもの。人家の密集している所を、道路で分けた一区域の称。市坊。「街」=商店の立ち並んだ繁華な土地。市街。区分。階層。等級。地方公共団体の一つ。市に次ぎ村より大きいもの。市・区を構成する、市街の小区分。物を売る店。

洞(Kor)=中国の唐王朝期、その行政区画は「~省」ではなく、「~洞」とされた。李朝鮮時代のものが引き継がれた韓国の行政区画=洞(tong)は、漢字の中世音や現北京音に拠るものでしょうが、「Kor」は、凝・痼(こる)、郡(こほり)=桑折、氷等と同源で、群がる区画や場所と考えられる。

穴(あな)=仁王像の向かって右側、口を開けた阿(あの)形、左側、吽(うん)形とされる。例えば、「あ」とは口を大きく開いて声をだすが、「UN」の場合、口を閉じて、肯(うなず)く、呻(うな)る等、大きな声を出さない様子。
 仁王=伽藍守護の神で、寺門、または須弥壇(しゅみだん)の両脇に安置した一対の半裸形の金剛力士。普通、口を開けた阿形と、口を閉じた吽形に作られ、一方を密迹(みっしゃく)金剛、他方を那羅延(ならえん)金剛と分ける等、諸説がある。共に勇猛・威嚇の相をとる。

縁(へり)国=邪馬壹国の傍国「巴利(へり)国」を殆ど平地が無い丘や山縁の海岸とし、長崎県北松浦郡(平戸市)田平町付近に比定した。水道のある縁=戸縁(とべり→たびら)と考える。



  1. 2016/11/22(火) 09:11:09|
  2. 邪馬台国
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◇村と触

 >(8)~云々、歴史学者の白鳥庫吉博士説に拠れば、上記の「Pur」「Por」が「Bur → Mur → Maur」になった。

 漢字音の変化(上古音→中古音(唐音)→近世音)はB系→P系と云う転音が多く、P系→B系も極僅かあり、「Pur→Bur」という転音もあり得ます。ただ、中古音(唐音)では、マ(M音系)行→ムバ行(mB音系)に変化します。詰まり、ハ行の濁音バ行(ba)と、マ行鼻濁音(mba)が在りますので、こうした事に順いますと、「Pur→Bur→Mur」と云う転音だけではなく、「Mur→Mbur→Bur」とも転音もあったと考えられます。
 これらの言葉が漢語を使う支配階級だけではなく、民間レベルでも使われたとすれば、漢字音等の影響に縛られず、彼等の持つ音韻体系に拠ったと思われますので、問題ないでしょう。ただ、意味的な変異は在ったかも知れません。
 
 >(9)この「Pur」「Por」は、日本語の古語では「フレ」にあたり、「プレ(pure)」と発音していた。後の地名の「フル、バリ、ハル、ハラ」は、この「フレ」が転訛したもの。
 
 漢字音の変化、上古音→中古音(唐音)→近世音からすると、P系→B系、P系→F系と云う転音が見られます。 日本語の現代音のハ行・バ行、韓国語のH音系は、漢字音と同様、旧くは、P系(パ)→B系(バ)とP系(パ)→F系(ファ)の二系の音があり、夫々の語源や意味合いは違っていたと考えられます。詰まり、古朝鮮語「Pur」「Por」が、全て一様に以下の如くと変化したとするには、少し、無理があるのかも知れません。

  フレ(pure→bure/fure→hure) フル(puru→buru/furu→huru)
  バリ(pari→bari/fari→hari) ハル(paru→faru→haru) ハラ(para→fara→hara)

 玄界灘に浮かぶ島、長崎県の壱岐には行政区画としての触(ふれ)が在り、これも古朝鮮語由来とされます。ただ、より朝鮮半島に近い対馬には見えない地名語尾の「触(ふれ)」が壱岐にだけに残った理由は何でしょうか。
 例えば、上記と同系には、振(ふり)・降(ふる)、村(むら・ふれ)等があります。村の訓「むら」が群(むらがる/むれる)と同源だとすれば、拡散していた多くの人が集中して群がると、袖が触れ合ったのか。おそらく、以下の如く転音したと考えます。

   ムラ(mura)→ムレ(mure)→ムブレ(mbure)→ブレ(bure)→プレ(pure)→フレ(fure/hure)

 詰まり、村(むら)→ムブラ(mbura)→プレ(bura)→触(pure/ふれ)と云う転音とも考えられますので、一概に古朝鮮語由来とはできません。おそらく、下記の如く転音し、語義が派生したと推測されます。

  触(ふる→ぶる)→群(むる)→村(むら)
  ↑
  治(ばり)→墾(はる) *春→晴(はれ)
  ↑
  張(はり)→放(ばうる→まる) *丸(まる)
  ↓
  原(はら)→茨(いばら) *荊(いばら)

 触(ふる→ふれる)の同訓、振・震・狂(ふれる)=横に外れる→互いに連絡している→関係性がある。また、古・経(ふる)・降(ふる)、柯(ふる)等も在り、古・経(ふる)は、A点~B点へ時間が過ぎる事、降(ふる)は、A点(高所)よりB点(低所)へ落下してくる事、柯(ふる→えだ)は、幹(A点)から別れて伸びた先(B点)とすれば、上記、振(ふる)・震(ふる)は、A点から中央、中央からB点への移動で距離感があります。尚、触(ふる・さわる)=付く事とすれば、これもA点とB点が連絡する事になり、何れの場合も語義は同源として良い。
 例えば、ハラ(原・腹・払)=平たい事、ハリ・バリ(墾・治・張)=平たく開ける、ハル(春・晴・貼)=冷気や雲が払われ、平になり視界が開ける、フル(振・降・震)=上下や縦横の動き等、最下層に基本語義を共有する同訓の異義語も、本来、幾分か発音が違っていたかも知れれません。
 今迄、述べてきた事を考え併せると、「Pur」「Por」が「Bur → Mur → Maur」とする全てが同源の言葉で、同音から派生・転音したとしても、何らかの語義的な変異があって然る可きでしょう。

墾(はる)=治水工事や土砂が堆積して拡がる原野を開墾する。放(ほうる→ばる→まる)→丸(まる)→巻(まるく)→種を播[pa](ばく→まく)、散らばる→開き張る→貼る、植物が芽吹き、葉を張り出し、曇りがちの空に日が差して晴る→春(はる)等、同源として良い。

まる=小便を放る(はう・る→ばう・る→まぅる→まる)等と使われた。尚、馬韓の一国「莫盧國=マッゥロッ→マロ→マル(放る→丸)」を生活習慣の違う言葉の通じない国とした。定住する畑作民ではなく、草原に羊や馬等を放牧する遊牧民の国かも知れない。
 (字統)「廬」の説明として、旅=旗を掲げて多くの人が出向する事で、軍行の集団(旅団=軍五百人)、一方、「斿」=一人で旗をを奉じて行くと在り、集団生活ではなく、家族単位で移動すると考えられる。

荊(いばら)=刺のある小木の総称。むばら。うばら→うまら(上代東国方言)。「薔薇」とも書く、野生のバラ類の総称。ノイバラの類。植物の刺・針。〔建〕唐破風(からはふ)等で、曲線の集まって生じた尖点。*薇(ばら)、威張(いばり)→角張る→刺々しい



  1. 2016/11/14(月) 21:55:00|
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