見まごう邪馬台国

◇草書

 最後に書家の井上悦文氏説、「三国志魏使東夷伝」原本は、楼蘭遺跡から出土した晋代の残紙に記される文字で、漢代に成立した篆隷を簡略化した草書体で書かれていたとする。その傍証として、晋王朝の史書「晋書」に拠ると、「三国志」原本が無かったので、地位の低い陳寿の文官として名声が高かったので、晋帝の命で、その家に文官を遣わして書写させたとの記述があり、本来、陳寿の草稿は草書だったと判明したと云う。
 私見を述べると、こうした伝承は眉唾物で、晋王朝の正史「晋書」は、魏王から禅譲されたとするが、魏の権臣司馬懿や孫の炎が魏帝から皇位を奪い建国した等と記載するのは憚られたため、事実を隠匿したとも考えられる。
 そもそも、皇帝に献上する形で編纂される官製の史書や志書等は、草書の成立前代、そうした文書に使われたとされる大篆(だいてん)から脱化し、筆写に便した小篆(しょうてん)を簡略化した隷書が使われたとあり、晋代の残紙に草書体の文字が見えるからと云う理由で、当時、文官の全てが官製文書の草稿に草書体を使っていたとするのは危険で、陳寿の草稿原本でも発見されない限り、草書で記述されたと云う十分な証拠にはならないと考える。
 
 論者は、「倭人伝」の「海」と「馬」、「大」と「支」、「卑」と「鬼」、投馬国の「投」と「殺」、邪馬壹国の「邪」と「耶(無し)」、都支国の「都」と「越」や、躬臣国の「臣」と「須」、姐奴国の「姐」と「妲」が、よく似た字形になると云うが、對海国の「海」は大海之中・循海岸・始度一海・又南渡一海・又渡一海・東渡海・瀚海等と、馬壹国の「馬」は投馬国・斯馬国・馬国、女王国官名、伊支馬・彌馬獲支に使われる。一大国の「大」も一大率・大官・大倭・大人・大夫、「支」は已百支国・都支国・支惟國、邪馬壹国の官伊支馬・彌馬獲支、伊都国の官爾支等がある。
 更に、卑弥呼の「卑」は大官卑狗・副官の卑奴母離、尊卑や烏丸鮮卑と、「鬼」は鬼奴国・鬼国や鬼道等、「都」は詣京都・好古都国・都市牛利や女王之所都等、投馬国の「投」は投橿、「殺」は便欲之・更相誅當時千餘人等がある。躬臣国の「臣」は「足相臣服」に見えるので、これらを比較から略判断できる。おそらく、国名の對海国は対馬に順い「馬」、一大国は壱岐に順い「支」の間違いだと推測したのだろう。

 初め、蜀の文官だった陳寿は素行が悪いと罷免された後、魏に仕え、魏帝の命で三国志を編纂したと伝承され。おそらく、史書や志書等の編纂には、多くの文官が携わったと考えられるので、草稿の原本が草書だったとしても判読不明の文字が使われる等、あり得ないだろう。
 私見だが、陳寿の先達たる文官達が、日常、同じ筆順で記していた小篆や隷書が、自ずと簡略化されて、速記に適した草書体は成立したとすれば、後代の文官は、そうした文字を使い熟すのに、どれほどの修練を必要としたのだろうか。論者の云う、よく似た字形は、特に修練したと推測されます。
 縦しんば、陳寿自身の文字が酷い癖字で、その癖や違いを見比べられなかったとすれば、文字としての役目を為しておらず、況んや、後代、文官として大いなる名声を得たと云う陳寿自体の資質が疑われる。

 尚、「倭人伝」に「須」は見えないが、「布」は幾つか見える。己が説に適うのか、「須」と「布」の書体も似ると、福岡県朝倉市の麻氐良布(まてらふ)神社→麻氐良須(あまてらす)神社とする。
 倭人伝の「布」と、「須」「布」の草書の資料で、論者が、何れになるのかを判断したのであれば、「この布は須であってほしい」。詰まり、論者は、予め国々の比定地が決まっていたと考える。
楼蘭(ろうらん)遺跡=西域の地名。クロライナの音訳。鄯善(ぜんぜん)国の首都で、新疆ウイグル自治区ロブノール北西にあった。前2世紀以前~5世紀頃迄栄える。ガンダーラ文化の影響を示す遺品、漢式鏡・漆器等が出土。
 鄯善=前2世紀以前~5世紀頃迄、栄えた西域の大国。天山南路の南道、ロブノール南辺を中心にクロライナ(楼蘭)・ミーラーン・ニヤ等の諸都市を支配した。インド系カロシュティ文字を使った文書が出土。ロブノール
 ロブノール(Lob-Nor・羅布泊)=中国、新疆ウイグル自治区タリム盆地東端の砂漠にある塩湖。標高768m、位置・形状は絶えず変動。流入するタリム河・孔雀河の河道と水量の変化により現在は干上がる。蒲昌海。塩沢。*泊=水深の浅い状態

篆隷(てんれい)=篆書と隷書(れいしょ)、隷書=書体の一つ。秦の雲陽の程邈(ていばく)が小篆(しょうてん)の繁雑を省き作ったもので、多く官製の文書に使われる。漢代には、再度、装飾的になり、後世、これを漢隷、または、八分(はっぷん)といって古い隷書と区別した。一般に隷書といえば、漢隷を指す。尚、楷書を隷書ということもある。何れにしても官製の文書に使われた。
 大篆(だいてん)=周の宣王の時、史籀(しちゅう)が造ったと云う漢字の書体。古文から出て篆文(小篆)の前身をなす。籀書(ちゅうしょ)。籀文(ちゅうぶん)。
 小篆(しょうてん)=漢字の書体の一つ。大篆から脱化した字形で、筆写に便にしたもの。秦の李斯(りし)の創始という。更に、簡便な隷書・楷書の創始以来、鐘鼎(しょうてい)・碑銘・印章等にだけに用いる(篆文。秦篆。篆書)⇔大篆。*説文解字の正文は、この字体に属し、漢字の原義を知るに便利

晋王朝=中国古代、春秋時代の十二諸侯の一つ。姫姓。周の成王の弟叔虞後裔という。都は絳(こう)現山西省侯馬市。文公に至って楚を破り、周を助けて国力大いに振るい、領土は河北南部、河南北部に及んだ。前403年、韓・・趙(三晋)の独立により名目的な存在となった。
 三国の魏に代わって、その権臣司馬炎が建てた王朝。都は洛陽。280年呉を滅ぼして天下を統一。後、五胡の乱のため、316年、4世で滅亡(西晋)。翌年、皇族司馬睿(元帝)が建康(南京)に再興したが、混乱が続き、遂に将軍劉裕によって滅ぼされた(東晋/265~420)。
 
草書=書体の一つで、篆隷(てんれい)を簡略にしたもの。俗に楷書と草書との中間の書体で隷書を簡略にした行書を更に崩し、速記するためか、点画を略したものをいう。日本人の使う草書も漢代の書体を手本とする。
 
魏王=晋の六卿の一人、魏斯(文侯)が韓・趙とともに晋を分割し、安邑に都した。後、大梁(河南開封)に遷る。山西の南部から陝西(せんせい)東部、及び、河南北部を占めた。後に秦に滅ぼされた(前403~前225)。三国時代の国名。後漢の末、198年曹操が献帝を奉じて天下の実権を握って魏王となり、その子丕(ひ)に至って帝位についた。都は洛陽。江北の地を領有。5世で晋に禅(ゆず)る曹魏。(220~265)。北魏に同じ。

「海」と「馬」=論者の提示した字形は確かによく似るが、「海」は「氵(さんずい)」の位置が異常とも云える程、近くに書かれる。「衡山草書」に拠ると、右側「海」、左側「馬」と在る。何れにしても陳寿の草稿原本が無くては、似た字形に拠る誤表記があると云う論者の説自体が不確かなことになる。尚、「海」の「氵(さんずい)」を除いた「毎」は、平仮名「あ」によく似る。
        umiuma.gif

対馬=漢和大辞典(藤堂明保編)に拠ると、海[məg][hai][hai]と在り、上古音「ムァェ→マェ→メ」が、中古音「ハイ」となり、馬[măg][mă(mbă)][ma]に代えられたと考える。對海国の語源は瀚海に在る対の島か、瀚海に対面する島。
 壱岐は唐津と博多へ岐(ちまた)の島か、往きの島で、一大国は自女王國以北特置一大率檢察諸國。諸國畏憚常治伊都國。於國中有如刺史と云う一大率に関わりが在り、「後漢書」一支国は或る組織からすると「支(ささ)へ」であり、他方からすると、支(つか)へでもあるのかも知れない。
  
麻氐良布(まてらふ)神社=月読尊、天照大神、伊弉諾尊、素盞嗚尊、蛭子尊他。尚、「日本書紀」左手の白銅(ますみの)鏡に生る天照大神、右手の白銅鏡に生る月読尊と在り、麻氐良=真手等(まての)→左右の手、布(ふ)=父の伊弉諾尊かも知れない。ただ、祭神の変遷があったのか、『神名帳考證』伊弉册尊 伊弉諾尊 斎明天皇 天智天皇 明日香皇子 天照國照彦火明命とされ、イザナミ尊が祀られる。
 尚、「倭人伝」に「妲」は見えないが、「越」「布」「臣」は使われる。



  1. 2018/04/16(月) 10:05:00|
  2. 5.漢字の用法
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇「可」と「許」「餘」

 「東夷伝」の倭人条に見えるよく似た以下の記述、「可(ばかり・べし)」「許(ばかり)」と「餘(あまり)」等、用法の違いを考えてみる。

 千里至對馬國~、所居絶島方四百里~。有千戸。
 千里至一大國~、方三百里~。有三千
 千里至末盧國~、有四千戸。
 五百里到伊都國~、有千戸。
 奴國百里~、有二萬戸。
 不彌國百里~、有千
 投馬國~、五萬戸。
 邪馬壹國女王之所都~、七萬戸。
 女王國東渡海千里、復有國、皆倭種。
 有侏儒國~、去女王四千里~。
 有裸國黑齒國~、船行一年至。
 參問倭地~、周旋五千里。

 夫餘~、方二千里~、戸八萬。
 高句麗~都於丸都之下方二千里、戸三萬。
 東沃沮~、西南長千里~、戸五千。
 韓~、方四千里~、馬韓~凡五十國。大國萬家、小國數千家、總十萬戸~。
 弁辰韓、合二十四國。大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸。其十二國屬辰王。

 例えば、道程の不彌國には「有千家」とあり、「戸」と「家」の関係ではない。この「餘」の違いは何だろうか。「広辞苑」には以下の如くある。

 「・下(もと)」物の下(した)。また、その辺り、影響が及ぶ範囲。「が‐り」 (カアリ(処在)の約カリの連濁。一説に、リは方向の意。人を表す名詞や代名詞に付くか、助詞「の」を介して、その人のいる所への意を表す。「ばかし・ばっかし」 〔助詞〕バカリの訛。くだけた会話の中で用いる。尚、漢和大辞典の「解字」言+午(きね)の会意兼形声文字で、杵を上下に動かす事から上下に幅やズレを持たせ、まあ、これで良しとする。*「容」=受けいれる

 「/余(よ)」(「」と書く)我、己、予。それ以上である事。端数がある事を示す。その他それ以外。尚、漢和大辞典の「解字」スコップ等の道具で土を押し広げる様で、ゆったり、ゆとりのある状態を表す。「餘」=食料にゆとりがある。

 詰まり、「許」=上下に幅を持たせて通す。「餘」=ゆとり、余剰が在るとすれば、「有三千」=三千家には少し許り足りないが、何とか有すになる。後者の「有~餘戸」=足りて超える~を有すと云う違いになる。尚、「馬韓~、凡五十国(54国)」から、「總十萬戸」は、十万戸、「大国萬家」は、一万四千家として良いのかも知れない。

 尚、領域を示す「方~里」で、對海国「方四百里」だけ、「~餘里」とされる理由は、「餘=その他それ以外」から円形に近い一大国の形状とは違い對海国が上下二島に別かれた長方形である事を「それ以外」として示唆する。
 また、「方~(方~になるべし)」に使われる「(べし)」は、広辞苑に拠ると、(1)良い事、(2)良しとして勧める、(4)そうして宜しいと認める、(5)可能と認める。「ばかり」(副)まあそれくらい。尚、漢和大辞典の「解字」屈曲している事で様々な曲折を経てどうにか認める事とある。

 上記、下戸の口数を示す「~餘戸=足りて余る~ばかり」。或る期間を示す「~一年至=(往復)一年ばかり至るべし」。円形状として大凡の領域を示す「周旋里=~余里ばかりで周旋する」。台形や三角形に近い領域を示す「西南長千里=西南側が千餘里ばかり長い」等。また、自女王國以北其戸數道里得略載、其餘旁國遠絶不得詳があり、これは(5)可能と認めるで、詳細の略載をできると認め得る。~を認め得ない。
 尚、他にも以下の如く在る。

 其九服之制可得而言也=その九服の制であるならば、言い得るべし
 小大區別各有名號可得詳紀=大小の区別され、各、名号あり、詳らかに紀すべし
 到録受悉可以示汝國中人=到り、録を受け、以て悉く国人に示すべし



  1. 2018/04/08(日) 23:02:15|
  2. 5.漢字の用法
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇~與~接

 先の論者は以下の如く続ける。【また、「南與倭接」を「南は倭(國)と接す」と訳す者もいます。國と國とが接するとは、「互いの国境」が接する事をいいます。ところが三世紀には、未だ、国境が存在しません。詰まり、國と國とが接するという文章そのものが成立しないのです。

 例えば、對馬國の「方可四百里」や一大國の「方可三百里」は海で囲まれる。夫餘の「方可二千里」や高句麗の「方可二千里」等は城壁内だとすれば、現在の国境と同様の状況とは云わないが、大凡の領域と云う概念はあった。その最前線には互いの出城が営まれ、烽火台が設置されたと考える。 尚、「魏志烏丸鮮卑東夷伝」には以下の如き記述が見える。

(1)夫餘在長城之北去玄菟千里 南與高句麗 東與挹婁 西與鮮卑接 北有弱水
(2)高句麗在遼東之東千里 南與朝鮮濊貊 東與沃沮 北與夫餘接
(3)東沃沮在高句麗蓋馬大山之東 濱大海而居 其地形東北狹 西南長可千里 北與挹婁夫餘 南與濊貊接
(4)北沃沮一名置溝婁 去南沃沮八百餘里 其俗南北皆同 與挹婁接
(5)挹婁在夫餘東北千餘里濱大海 南與北沃沮接 未知其北所極
(6)濊 南與辰韓 北與高句麗沃沮接

 (1)~(6)の「~を与う~に接す」と云う位置表示の「接」が、前句の「~を与う~」にも係るとすれば、どの様な位置関係なのだろうか。例えば、白川静編「字統」接(手+妾)で、神に捧げられた女性が手を伸ばして触れる=神と繋がる=接ぐ事とある。詰まり、自領から手を伸ばすが如く、他国との間には何れにも属さない緩衝帯が広がり、隣り合う。おそらく、土地に定住する農耕民とは違う遊牧や狩猟採集等に因るものか、曖昧な境界線だった。
 上記は同様に、「韓在帶方之南。東西以海爲限、南與倭接~」=(韓の)南を与ふ倭と接すは、何らかの緩衝帯を挟み、倭と接しており、その北側は帶方郡治下とされるので出城のある境界で、東西は領有しない海岸の水道に囲まれると考える。

 【「弁辰與辰韓雜居」=弁韓の人々は辰韓に雑居すると訳した場合、弁韓とは弁韓人を表す事になります。倭も同じく倭人と訳します。「南與倭接」は南で倭人と接すと訳します。

 「與(与)」は雑居する弁辰の国々に住む人々が辰韓に対して何らかの影響を与えている事になる。そもそも弁辰とは辰韓から何らかの事情で分裂したと云われるので、その関係は良好ではなかったと推測される。
 その理由を弁辰の人々が帶方郡に支配され、朝鮮半島西南部の沿岸航海に従事させられたためとすれば、「瀆盧國與倭接界」とされる理由も韓国南岸と倭の北岸狗邪韓国から渡海する一海と接しており、瀆盧国は、その狗邪韓国に対して何らかの影響を与える関係と考える。
 詰まり、對海国や一大国にある記述、「~南北市糴」から、両者は交易等の良好な関係を保って居り、帶方郡衙の命で沿岸の水行を担ったのが、弁辰狗邪国の人々とも考えられる。

 【「其瀆盧國與倭接界」=瀆盧國内で倭人と接す韓の南で倭人と接する國は、どうやら「瀆盧國」のようです。この文章に「界」とありますが、これは「瀆盧國」の内側と訳します。例えば、見える範囲を「視界」といいます、そして見えない範囲が「非視界(死角)」になります。詰まり、「瀆盧國」の「界」とは「瀆盧國の範囲(内側)」ということになります。

 漢和大辞典「界」いは、田(区画)+介(両手を拡げる人の象形)とあり、「視界」=視線の及ぶ左右に広がる区画になる。大韓民国と朝鮮民主主義共和国の38度線軍事境界線と同様、「其瀆盧國與倭接界」とは弁辰瀆盧国領と倭の領域が南岸の水道を介して接する所で、對海国や一大国の海民は交易した文物、鉄等を南側の末廬国で、新たな交易品、貝輪等と交換していた考える。

弱水=松花江(Songhua Jiang)の別名。中国東北部の大河。朝鮮国境の長白山頂の天池に発源、黒竜江に合する。全長1840㎞。哈爾浜(ハルビン)より下流は船が通じ、運輸・交通に利用する。満州語名のスンガリーは「天の河」の意。
 哈爾浜・哈爾賓(Ha’erbin)=中国黒竜江省の省都。松花江の南岸に沿う東北地区北部の中心都市で、交通・商工業の要衝。

與(与)=〔他下一〕[文]あた・ふ(下二)相手の望み等に対応する様な物事をしてやる意。自分の物を目下の相手にやる。授ける。影響・効果等を、相手に被らせる。特別の配慮を、相手に施す。仕事・課題等を、課する。宛がう。(数学等の用語)前提として所与のものとする。


  1. 2018/04/02(月) 09:11:05|
  2. 5.漢字の用法
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇~海為限

 或る論者は、以下の如く論述します。 【中国の辞典で「旁」の意味を調べると、その他、左右両側とあります。「左右両側の国が遠絶では、意味不明の文章になります。従って「旁」は、その他と訳すことになります~(中略)。
 漢文に通じていれば、「其餘」と「旁國」とを分離して訳すでしょう。詰まり、「其餘」とは女王支配の對馬國・一大國・末盧國・伊都國・奴國・不彌國・投馬國・邪馬壹國」を除く、残りの 21國を指します。そして、旁國(その他の国)とは、「不屬女王の狗奴國」を指します。そして「其餘」の 21國は遠く離れていて、また、「旁國」とは絶縁状態にあり、詳細を知る事が出来ない
。】

 女王支配の八国として、絶縁状態の其餘旁国21ヶ国とするが、其北岸狗邪韓国が含まないなら、冒頭、「今使譯所通三十國」とあり、旁国の最後に見える奴国と「自女王国以北~」の道程に見える奴国とは別の国になる。
 その右(東)側に位置する旁国が「東渡海千餘里の倭種」に関わりが在るならば、邪馬壹国の旁国として記述する必要はない。また、狗奴国の支配下としても、「~次有奴國。此女王境界所盡。其南有狗奴國男子爲王」との整合性が見えない。また、その左(西)側の国々は、どの様な国々だろうか。

 【魏志韓伝「韓在帶方之南 東西以海為限 南與倭接」=韓は帯方の南に在り、東西は海を以って限りと為す、南は倭と接す。この文章を区切って説明しましょう。

 
「韓在帶方之南」=韓は帯方の南に在る。
 「東西以海為限」=東の辰韓も西の馬韓も海に面していて、この先に陸地は無い(限りと為す)。
 「馬韓在西、辰韓在馬韓之東、弁辰與辰韓雜居」=「辰韓」は馬韓の東、「馬韓」は韓の西に有る、そして「弁辰(弁韓)」は辰韓と雑居とあります。詰まり、韓の東西(韓は全て)は海に囲まれていて、その先に陸地は無い(陸の限り)という意味になります。


 もし韓の東と西が海に面していると訳した場合、次の文章はどうなるでしょう。「乘船南北市糴」=船に乗り南北と米の交易を行う。この文章の南北を「南海岸」と「北海岸」と訳した場合、「對馬の人は對馬國の南海岸と北海岸とで米の交易を行う」といった、トンチンカンな訳になってしまいます。

 例えば、「韓条」東沃沮在高句麗蓋馬大山之東濱大海而居。挹婁在夫餘東北千餘里濱大海。濊南與辰韓北與高句麗沃沮接東窮大海等の異なる記述があり、「東西以海為限」と濊南與辰韓北與高句麗沃沮接「東窮大海」との違いは何だろうか。
 地図で確認すると、半島東沿岸部は山麓が海岸まで迫っているが、西沿岸部は幾筋かの河口付近に僅かながら平地があり、港湾として利用されて居たが、韓国(馬韓・辰韓・弁辰)の諸国が帶方郡治下だったとすれば、そうした地には郡衙の出城があり、役人や武人が派遣されていた。
 そうした状況と少し違い、東の七縣は樂浪郡の都尉が治める所となり、現在の元山や威興付近に都尉の役所が置かれたと云われる。後、都尉は廃されたため、東海岸には、先住民の領海があった。また、東沃沮在高句麗蓋馬大山之東大海而居の蓋馬大山東の濱大海は、ツングース系の沃沮に必要ではないが、挹婁在夫餘東北千餘里濱大海は、挹婁喜乘船寇鈔北沃沮畏之とされるので、挹婁の領海だったとも考えられる。

 「南北市糴~」には乗船とあり、一海を渡り、南の末廬国等、倭地の国々、北の狗邪韓国が弁辰瀆盧国を含む弁辰の国々と交易した。「~界を接す」は何らかの区画、38度線の軍事境界の如き緩衝帯を挟む。おそらく、半島南岸部の水道を介して向きあう状況で、「東西以海為限~」は単に陸地が途切れるのではなく、韓の国々に、その領有権はなかったと考える。以下次回。

其北岸狗邪韓国=「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里」と云う文章の文脈に拠ると、「其」=倭人の領域と考えられるが、陳寿が帶方郡衙の東南とした倭人の領域中、倭の北岸狗邪韓国とした南側の領域へ渡海する一海(瀚海)、倭地や女王国と邪馬壹国等と書き換え理由と、その関係性は何だろうか。そもそも女王卑彌呼には政を佐けた男弟が居たとあり、政治的な影響力があったのだろうか。

三十國=倭人在帶方東南大海之中。依山島爲國邑。舊百餘國漢時有朝見者。今使譯所通三十國=倭人は帯方郡衙東南の大海中、山島に依りて国邑をなす。旧くは百余国、漢の時、朝見する者があった。今、使訳を通じる所、30国。

東窮=窮=ぎりぎりの限度に達する。極限の状態に至る。果て迄くる。終りとなる。尽きる。「谷まる」とも書く。動きのとれない状態に陥る。行き詰まって苦しむ。窮する。そういう結論に到達する。決定する。

都尉=「自單單大山領以西屬樂浪 自領以東七縣都尉主之 皆以濊爲民 後省都尉封其渠帥爲侯 今不耐濊皆其種也」=単単大山より西波樂浪郡に属す。その領より以東七縣は都尉が、これ主。皆、濊を以て民と為す。後、都尉を省き、その渠帥を侯と為す。今も耐えざる濊、皆、その種なり。

挹婁=『後漢書』その族人は臭くて、穢くて、不潔である。檀弓は三尺五寸、矢は一尺一咫。粛慎の後裔挹婁の記述。粛慎は、BC16世紀に始まる商時代には、中国東北部の松花江とウスリー河の沿岸を領域としていた古族であり、中原諸国にも広く知られており、粛慎を穢(濊)と呼ぶ史籍はないが、粛慎から分立し、鴨緑江や太子河の上流域に出現した。
 漢から五胡十六国時代(1世紀~4世紀)にかけて、外満州付近に存在したとされる民族。古の粛慎(みしはせ)の末裔とされ、魏代・晋代でも、そのまま粛慎と呼ばれ続けた。「挹婁」の呼称は彼等自身の自称ではなく、鏃(yoro)、箭や後の牛禄(niru)、坑(yeru)等の音訳と考えられている。
  漢代以降は夫余に従属していたが、夫余が重税を課したため、魏の黄初年間(220-226年)に反乱を起こした。夫余は何度か、挹婁を討伐したが、独立し魏への朝貢を行った。


  1. 2018/03/26(月) 10:11:50|
  2. 5.漢字の用法
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇去~

 前項にも提示した「倭人伝」の文章の女王国に属していない国の記述中の「去女王四千餘里」とは、どの様な状況を述べるのだろうか。

 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國黑齒國復在其東南、船行一年可至。

 「広辞苑」に拠ると、「去」=(時・季節な等)移り巡ってくる。時が過ぎていく。ある所・地位・状況から離れ、他へ行く。移る。物事が過ぎてゆく。過去のものとなる。隔たる。離れる。距離がある。過去に遡る。(色が)褪せる。感覚・幻覚等が消え失せる。無くなる。「世を―・る」の形で、亡くなる。死ぬ。サ変動詞の連用形に付き、…してしまう。…してのける。
 〔他五〕自分の意思のままに遠ざけたり、譲ったり、拒んだりする意。遠ざける。離す。避ける。譲歩する。譲る。離縁する。除く。捨て去る。断る。拒む。辞退する。連歌・俳諧等で、指合(さしあい)にならないよう句を隔てる。(連体詞) 〔連体〕過ぎ去った。
 尚、許慎に拠る「説文解字」の「至」項、「不上去而至下來也(上空に去らずして、地に下りて来るなり)」と云う句を添えて字羲を説明する。この場合、「行」=足下を過ぎると違い、「去」の語義を、足下から隔たり、離れるとして、読み下すと以下の如くなる。

 女王国の東側、渡海千餘里、再び、国が有る皆倭種。女王国の東側、渡海千餘里、その国の南に侏儒国が有る。身長三・四尺、女王の領域から隔たり、離れること四千余里。また、裸国と黒歯国が、女王国東側渡海千餘里の国の東南に在る。船行で、(往復)一年可で至る。

 倭種の国と侏儒国は、朝鮮半島沿岸部の航海や狗邪韓国からの渡海と同様、一日で航行できるとした最長の距離数の千余里(約100㎞/最長三日)を基準として記述するが、後者の二国は、列島の南海を流れる黒潮本流と、その環流、更には季節風を用いた遠洋航海で、季節が代わり、風向きが変わるのを待つため、往復の日程を合わせて船行一年と考える。

 尚、「魏志烏丸鮮卑東夷伝」には、以下二つの記述が見え、同様に読み下すと以下の如くなる。

 (1)夫餘在長城之北去玄菟千里、南與高句麗、東與挹婁、西與鮮卑接、北有弱水=夫餘は長城の北に在り、玄菟(故府?)から隔たり、離れること千里、南を与う高句麗、東を与う挹婁、西を与う鮮卑に接す、北に弱水を有す。
 (2)北沃沮一名置溝婁、去南沃沮八百餘里=北沃沮、一名、置溝婁、南沃沮から隔たり、離れること八百餘里となる。

 この場合も里程に拠る距離数を記述する理由は、陸上を人や馬に拠る歩測で計測できたためだろうが、(2)「~餘里」とされる理由は、彼等が持つ生活習慣から領域に対する意識が曖昧だからと考える。
 また、「去=除く」とすれば、玄菟と夫餘の間、千里を除く、南沃沮と北沃沮の間、八百餘里を除くとなり、互いに領有する範囲から除く領域となり、間に沿岸航海に用いる水道を介した状況の「其瀆盧國與倭接界(帶方郡に服属した弁辰の瀆盧国は南を与う倭と接す)」とは違い、おそらく、彼等にとり、大した利用価値のない荒れ地や山脈等の緩衝帯を持つ状況と考える。

 次に、「後漢書」にある邪馬臺国の位置を表す記述、「樂浪郡徼去其國萬二千里去其西北界邪韓國七千餘里」と在り、「倭人伝」の記述、其北岸狗邪韓国とは違い、去其西北界拘邪韓国とされる。
 読み下すと、樂浪郡から求めるに邪馬臺国は隔たり、離れること一万二千余里、樂浪郡との西北界、拘邪韓国は隔たり、離れること七千余里となる。詰まり、「倭人伝」帯方郡衙から、倭の北岸狗邪韓国迄が七千余里だが、「後漢書」樂浪郡の領域西北界拘邪韓国迄が七千余里と考えられる。

行=「行き来する」と、「去来する」の違いは起点と考える。詰まり、「去来する」の場合、話者を起点に色々な思いや考え等が去り来る。「行き来する」の場合、話者と話者とは違う起点の場合がある。また、「往来する」とすれば、略、話者が起点にはならない。、

弁辰の瀆盧國=漢和大辞典に拠ると、「瀆」=穴が開いて水を抜き出す溝、通水路、汚す・穢れる。「盧」=飯櫃、火を入れる壷。二つを併せると、火を入れる壷(灯火台)を設置した水道の国と考えられる。


  1. 2018/03/19(月) 09:53:27|
  2. 5.漢字の用法
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇「又」と「復」

 「倭人伝」には、不和とされる狗奴国以外にも女王国に属していない国の記述があり、前項の「又」と同訓の「復」が使われる。この二種には、どの様な違いがあるのだろうか。

 女王國東渡海千餘里、有國、皆倭種。有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。有裸國黑齒國、在其東南船行一年可至

 漢和大辞典「復」=同じ道を引き返す、かえる。もう一度、繰り返す=再び。同「又」=その上に輪をかける、前の上を更に、もう一段と、(上古では)助けるの意とあり、夫々の語義を考え併せて読み下すと、以下の如くなる。

 女王国の領域から東に千餘里(最長で三日)を渡海すると、再び、皆、同じ倭人の国が有る。その上、更に、その南に侏儒国が在る。女王の領域を去ること、四千餘里。その上、更に遠く、裸国と黒歯国が、再度、その東南方面に在る。船行で往復一年ばかりで至る。

 上記の読み下しから、女王の領域の領域に対する倭種の領域や後者の三国は、どの様な位置関係になるのか考えてみたい。先ず、女王の領域から東渡海とされる倭種への始点や起点は何処になるのだろうか。
 諸説では、女王が都する都の比定地が九州内陸部か、近畿の明日香付近か、何れにしても東側に海は無いので、邪馬壹国を大分県宇佐市とする論者も居る。
 私見を述べると、女王が都する所を大分県宇佐市や奈良県飛鳥の何れにしても、問題とされる道程にある方向の記述「南至」を「東至」とせざるを得ず、こうした事がまかり通るのであれば、全てを間違いにしても良くなり、そうした改訂や改定は禁じ手と考える。
 女王国を邪馬壹国連合の領域とした。詰まり、女王に服属する国々とすれば、その始点や起点は一大率の拠点とした女王に服属する外洋航海従事する倭人の一大国で、その海民に拠る水先案内で渡海した。女王国東渡海千餘里の倭種とは、現玄界灘や響灘を東へ航海し、福岡県宗像市の宗像大社付近か、同県北九州市門司区の和布刈神社付近から以東の山島に依りて住む倭人の領域とする。

 次の侏儒国は、「又=その上、更に」とすれば、女王国の領域から四千餘里、詰まり、この倭種の西端(宗像や門司)から南へ周防灘から豊後水道を航海し、更には、日向灘を南へ三千余里、最長で十日間の日程で南下した宮崎県日向市から宮崎市付近と考えられる。この場合、「又有侏儒國在其南」とされない理由は、「人長三・四尺」と云う記述から、倭種とは違う国だからと考える。
 この記述の正誤を判断する資料は余りないが、侏儒(ひきひと)を身の丈の極めて低い人。小人・矮人(わいじん)とすれば、インドネシア領フローレス島で、時代的には現生人類と重なる身長1㍍強の新種のフロレシエンシス骨が発掘されたとあり、このフローレス島は、更新世以降に大陸や他の島々と陸続きにはならず、寒冷期、最短でも陸地と19km以上離れていたされ、竹や木材等に掴まり渡ったのだろう。

 次の裸国と黒歯国は、「又」=三千余里よりも更に遠く、裸国と黒歯国が有る。復、東南方面に在り、船行一年で至る。おそらく、東渡海千餘里の倭種の西端以東の瀬戸内海沿岸部を東行後、紀伊水道を南下、紀伊半島を迂回、更に太平洋の季節風と海流に拠る半年の遠洋航海と考えられる。
「東渡海千餘里復有国皆倭種」の「復」と同義で、裸国と黒歯国の人々も倭種として良い。
 
 序でに「倭人伝」(1)始度一海千餘里~、(2)又南渡一海千餘里~、(3)又渡一海千餘里~の「又」は、(1)倭人の領域北岸狗邪韓国と云う記述に対して、南に向け、始める渡海千餘里。(2)=又(更に)南に向け、渡海千餘里。(3)又(今迄と同様)南に向け、更に渡海千餘里となる。 

新種フロレシエンシス=インドネシア領フローレス島の更新世人類。詰まり、人類がフローレス島に移住するには渡海する必要があると云われる。フローレス島では中央南部のソア盆地と北西部のリアンブア洞窟で人類の痕跡を確認。ソア盆地では102万年前頃や88万年前頃の石器が発見されているが、人骨は共伴しない。リアンブア洞窟では9万5千~一万二千年前頃の人骨・石器が発見される。
 リアンブア洞窟で発見された人骨群は発見者絶ちによってホモ属の新種フロレシエンシス(Homo floresiensis)と命名(正基準標本はLB1)。これに対して、更新世リアンブア洞窟人は病変もしくは小柄な現生人類(Homo sapiens)集団であるとの見解が、発表当初から現在迄、根強く主張される。しかし、指摘されているように、更新世リアンブア洞窟人が現生人類であると考えている研究者は殆どいない。
 では、更新世リアンブア洞窟人が現生人類ではなく新種フロレシエンシスだとして、その祖先集団がどのような人類種だったのかというと、大まかに見解は二分されている状況です。一つは、フロレシエンシスはエレクトス(Homo erectus)が島嶼化により小型化した系統との見解です。もう一つは、フロレシエンシスの原始的な特徴に注目し、その祖先集団としてエレクトスよりも原始的特徴を有する系統、例えば、ホモ属もしくはアウストラロピテクス属に区分されるハビリス(Homo habilis)的な人類集団から進化し、島嶼化によるある程度の小型化はあったかもしれないにしても、当初より、身長1㍍強の小柄な集団だったのではないかとの見解です。
 仮に更新世リアンブア洞窟人が現生人類だとしても、102万年前頃や88万年前頃の石器が発見されているので、フローレス島に現生人類ではない人類集団が渡海してきた可能性は否定できず、現生人類ではない人類が渡海した明らかな証拠は、現時点ではフローレス島だけで確認されている。他の場所では、未だ確定したとは言えないが、クレタ島へと現生人類ではない人類集団が渡海した可能性が指摘される。

瀬戸内海沿岸部=この付近には四国と共に沿岸航海民の領域だが、日本海側にも沿岸航海民と遠洋航海民が居た。また、四国の南岸部、更には南海や東海地方にも沿岸航海民や遠洋航海民が居り、おそらく、裸国や黒歯国へは彼等の水先案内が必要だったと考えられる。


  1. 2018/03/12(月) 10:36:09|
  2. 5.漢字の用法
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇梁書と魏志

 岩元正昭氏は、以下の如く続けます。【梁書』倭國伝の叙述、「至伊都國、又東南行百里至奴國、又東行百里至不彌國」にも、第二使用法の二つの「又」字が見える。伊都國の代替である。奴國と不彌國への方位の次に、夫々「行」字が付いている二方向への行程が夫々に終焉している事を告げている。つまり、伊都國を共通の起点に奴國、不彌國方面に行程が放射状に書かれている。しかも両方面共にその先がない事が分かる。

 『梁書倭國伝』從帶方至倭循海水行歴韓國乍東乍南七千餘里。始度一海海闊千餘里瀚海至一支國。度一海千餘里未盧國東南陸行五百里至伊都國。東南行百里至奴國。東行百里至不彌國。南水行二十日至投馬國。南水行十日陸行一月日至邪馬國~。とある。

 上記、度一海千餘里名末盧國の「」は名瀚海になるが、東南陸行五百里到伊都國の「」を文脈から判断すると、「末盧國」になりそうだ。詰まり、名末盧國から東南行百里至奴國、名末盧國から東行百里至不彌國で、名末盧國から南水行二十日至投馬國。名末盧國から南水行十日陸行一月日至邪馬國~となり、「末盧國」からの分岐行程になる。
 一方、「三国志東夷伝」は、東南陸行五百里到伊都國、東南至奴国百里。東行至不彌国百里と、奴国には「行」字を附さず、「到」と「至」の位置も変わり、『梁書』と倭人伝の記述は同じ文脈ではなく、文意も同ではないと考える。
 また、「魏志倭人伝」では、邪馬國へ向かうのに「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」から對海(對馬)国を経由し、一大国に至るが、『梁書倭國伝』では、邪馬国へ向かうのに「從帶方至倭循海水行歴韓國乍東乍南~、始度一海、海闊千餘里名瀚海至一支國」と狗邪韓国と云う国名も見えず、水行の道程が変わり、對海(対馬)国を飛ばして、直接、一大国でもなく、一支国に至るとする。道程や国名、もしかしたら方向性も違う両書の国々が同国で、同位置関係とできないと考える。
 これをして単独「行」字が終焉する等の条件や根拠とはできず、論者の云う古代漢籍に常用されていた「行」の使用法はないと云わざるを得ない。況してや、邪馬国へ向かう別ルートがあった等の文意はない。
 尚、「倭人伝」他にも「また」と読み下す用字「女王國東渡海千餘里有國皆倭種や黑齒國在其東南船行一年可至」の「復」も見える。 

 最後に、【「転注者建類一首 同意相受、考老是也」、その建類一首・同意相受の部分が用法の原理を言い「⑥考老是也」は挙例である。「老」字が、その本字であり、「考」は転注字である。読み方は「類、一首を建て、同意相受く。考老是なり」となる。
 「建類一首」の訳出、「類」字は六書の會意文字の原理に「比類合誼」と既に使われている。この訳出は義符として用いられている二つの漢字の義を比較し、その意味を組み合わせる事を言う。随って、「類」とは字義そのものと見てよいことになる~(中略)。
 古代漢籍に常用されていて、現代人に伝わらなかった「語法」である。この種の失われた語法は、まだ、多々あると考える。


 私見で、「比類合誼」とは、「比」=物と物を並べ比較する。「類」=たぐい・相並ぶ・同等・釣合・対・仲間・同種。「誼」=親交・好み・因縁、相並ぶ言葉を比較して二字の縁を合わす事→親しい二字の基本的な語義を合わせ、比較する。
 述べてきた様に「古代漢籍に常用されていて現代人に伝わらなかった語法」とは、『説文解字』の説明を曲解し、思い込みに拠って創造した語義として、表意文字が持つ機能を逸脱・誇張して特筆し、意図的に取り上げたものとせざるを得ないと考える。

梁書=二十四史の一つ。南朝梁の4代の事跡を記した史書。本紀6巻、列伝50巻。唐の姚思廉・魏徴が奉勅撰。636年成る。「梁」=戦国時代、魏の恵王が大梁(現開封)遷都後の国号。南朝の一国。502年蕭衍(しょうえん)が南斉の帝位を奪って建国。6代で陳に滅ぼされた(502~557)。
 范燁編の「後漢書」倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百余國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。

文意=末盧国から東南へ陸行五百里で至る伊都国、末盧国から東南へ百里で至る奴国、末盧国から東へ百里を行くと至る不彌国。一方、陳寿は、末盧国から東南へ陸行五百里で到る伊都国(で分岐し)、東南で至る奴国迄百里(ではなく)、東へ行くと至る不彌國迄百里。になる。

復=同じ道を行って帰る。元に戻る・戻す。繰り返す。「覆」に通ず。返事をする。応える。仕返しをする。「股」の意から [一]〔副〕再び・二度。同じく、等しく。他に、別に、別の時。新たに加わった事態に驚きや不審の念を籠めて云う。この上。〔接続〕その上に、その他に、並びに。(話題を変える時)それから。〔接頭〕名詞に付けて間接的である意を表す。復(ヲチ)元に返る・若返る。元に戻る・返る・返す。復誦の略。
 「又」=同様の事が再び起こる様、同じく、同様に。やはり、驚きや疑問の気持ちを込めて語調を整える語。同じものに別の面がある様。一方、「A─A」の形で、同じ名詞を繰り返し、同様のものが続く様。別の事柄をつけ加える語。その上に、それに加え、更に、且つ。事柄を列挙する語、並びに、或いは、または。接頭《名詞に付いて》間接的である事。*亦(も‐また)=上を受けて「これもまた」の意を表す。「又」「復」等と区別していう。

同位置関係=「里」換算値を倭人伝と同じ「100m前後」では略限界でしょうが、一支国を約130㎞程東南の「日本書紀」海北道中の宗像大社奥宮が鎮座する沖ノ島を一支島にすると、末盧国は、約50㎞程東南宗像大社中宮の福岡県宗像郡玄海町大島(同町神湊、鐘崎)付近か、その50㎞程南西、対馬見山・奴山の宮地嶽神社の在る同県宗像郡津屋崎町宮司付近、伊都国は宇佐八幡宮分社の在る同県宮若市(旧鞍手郡若宮)竹原付近、奴国は同県鞍手郡宮田町・同郡小竹町南良津(ならづ)付近、不彌国は同郡鞍手町神崎付近だろうか。
  宗像大社=福岡県宗像市(旧宗像郡玄海町田島)にある元官幣大社、祭神は玄界灘の沖ノ島にある沖津宮田心姫命(たごりひめのみこと)・大島の中津宮湍津姫命(たぎつひめのみこと)・内陸にある辺津(へつ)宮市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)の三宮に祀ります。
 別説、則以八坂瓊之曲玉、浮寄於天眞名井、囓斷瓊端、而吹出氣噴之中化生神、號市杵嶋姫命。是居于遠瀛者也。又囓斷瓊中、而吹出氣噴之中化生神、號田心姫命。是居于中瀛者也。又囓斷瓊尾、而吹出氣噴之中化生神、號湍津姫命。是居于海濱者也。凡三女神
 「記」先に生まれた多紀理毘売命は胸形之奥津宮)に鎮座している。次に市寸島(いちき)比売命は胸形之中津宮に鎮座している。次に田寸津比売命は胸形之辺津宮に鎮座している。この三柱の神は胸形君等が祭祀している三柱の大神である。*支[kieg][tʃıĕ][tsı]
 また、長崎県上県郡上対馬町久須に広島県宮島の宗像三女神の市杵島姫命を主神とし、田心姫命・湍津姫命)を合祀する厳島神社がある事からすると、對海国の上島が一支(いちき→いつく)國と関係が在るのかも知れない。

建類一首=「建」は、物理的に建造するのではなく、論理を形づくり、文字を記し、絵を描くこと。それがため、物理的に立ち上げる場合、建立、建設、建築とされます。「類」=たぐい・相並ぶ・同等の・釣合・対・仲間・同種類。「首」髪のある頭、一番目、主たるもの。文字を併せると、一定の流れに則した同系統と思しき文字と設定される、その一番目、主たるものになります。

考老是也=白川静編「字統」卜辞等から推察すると、「丂」=曲刀の象形、気の上出を遮る事(説文解字)には関係はない。「考」=長髪の人と、聲符「丂」自体を「考」として用いた。一方、「老」=長髪の老人(老髪の垂れている様)と「匕」=化の初文とある。何れも長髪の老人が共通語義となる。
 卜文の甲骨文字には人の下体を、やや屈曲させて匕形に作り、妣(亡母)に用いる。やや直立した字は左右に拘わらず人。人の下体の屈曲した形は「尸」。その左向きの文字が妣の初文「匕」とある。「老」=長髪の人の死に近づく事、「考(かむがへる)」=神返るとすれば、神霊になる事だろうか。


  1. 2018/03/05(月) 09:43:00|
  2. 5.漢字の用法
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇放射式読解記述法

 先の岩元正昭氏は以下の如く続けます。【「行」字と「又」字のコンビネーションに拠る『放射式読解記述法』とは、二つ以上の行程区間が起点を共有して異方面に伸びる事を記す方法。
 「倭人伝」に載る「東行至不彌國百里」の「行」字について、全行程叙述中、この一箇所だけ、「方位」の語の直後に「行」字が付いている。結論を言うと、「行」字が単独に「方位」語に接続し引用される場合、「行」字が用いられている行程区間を以て、そこ迄述べてきた一連の行程叙述が終焉する事となる。
 つまり、「方位」が終焉し、進む方向がなくなる意になり、そこに至る一連の行程叙述が終焉する事を告げているのである。随って、この区間の直後に記されている区間の起点は「行」字を用いた区間の「終点」ではない。


 (1)東南陸行五百里到伊都国、(2)東南至奴国百里、(3)東行至不彌国百里と云う三つの里程記事に対して、編者の陳寿には何らかの思惑や意図が在ったの否めない。また、其北岸狗邪韓国から末盧国を「始度一海」「又南渡一海」「又渡一海」と書き分ける。
 仮に一大国から末盧国迄も南へ陸行したら、単独でない(1)東南陸行~も「東南行」にされたと考える。(1)東南陸行~として末盧国迄の渡海が終わり、海民の領海、郡衙から見た瀚海の南側の岸(廬國)で上陸した魏使一行は、平底船に乗り換え、一大率の官吏と共に従者が小河川沿岸から曳いて東南へ陸行した。
 また、(2)東南至~に「行」を付さないのは何故か。これが陸行だとしても、次の(2)東南至~を東南陸行至~としないのは、何故か。この理由を、女王の領域最南端だから奴国を記載したとして、邪馬壹国への行程に関わりのない不彌国を記述する理由は何かと、何れをとっても疑問だらけ。  
 (2)奴国へ行かず、伊都国迄と同様、(3)の不彌国へ伊都国から東行したと考える。これが「伊都国」とした理由で、女王の領域北辺、其北岸狗邪韓国から東南ではなく南へ渡海したのと同様、再度、伊都国から東南へ陸行する分岐点にせざるを得ない。

 【概ね行程叙述の最初の起点となる。「倭人伝」では投馬國への起点は不彌國ではなく帯方郡になる。これは古代漢籍の行程叙述上の『決めごと』であり、現代人にとっては『失われた語法』なのである。この語法は「行」字に止まると言う意がある事から派生する。

 当初、帯方郡衙を起点として倭人の領域を東南とした陳寿が、南至投馬国水行二十日~、南至邪馬壹国水行十日と陸行一月~を、「東南至」としなかったのは何故か。更に、態々、(倭人の領域)北岸狗邪韓国とした理由は、単に南側の一海を船を乗り換えて渡海するだけではなく、東南方面ではなく、南側へ分岐する倭人の領域内の目的地として「~狗邪韓国」とした。詰まり、東南方面の倭人の領域と女王国に服属する倭人の領域が同じではなく、大きな倭人の領域から東寄りの東渡海千餘里に住む倭種の領域を除外し、女王に服属する南側の領域とを区別したと考える。

 >「倭人伝」では「投馬國」への起点は不彌國ではなく帯方郡になる(中略)。『決めごと』であり。この語法は「行」字に止まると言う意がある事から派生~。とするが、論者の云う語義「行=止まる」を用いた語法等、今はおろか、昔にも無い。
 私見では、東南方面に設定した東渡海千餘里の倭種を含む大きな倭人の領域から女王国に服属する領域へ移動する分岐点を示唆するため、其北岸として倭の領域中、南側の邪馬壹国へ再設定し、二つの「南至~水行~」に繋いだ。詰まり、「其北岸~」が、南至投馬国~、南至邪馬壹国~の起点になる。これこそが陳寿の筆法だろう。
 
奴国=傍国の記述最後に、~次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國、萬二千餘里。再度、奴国が名が見える。この国が狗奴国に対する防人の如く対峙していると考える。

行=『説文解字』彳=人の脛の三屬相連なるに象る。一歩一歩、進み、佇み(暫く始めた行為を留め、その場に居る)、一時、休むとするが、字統(白川静編)彳(てき)と亍(ちょく)は単独で文字として用例はない。「行」字の左右で、素より足を象る物ではない。「説文」歩して止まるとは、躑躅(てきちょく)=足踏みする事を躊躇うと解しての訓とある。また、漢和大辞典(藤堂明保編)「行」項「解字」十字路を描いた象形文字、途(みち)を進む。動いておこなう等の意とする。
 「行」は交差点で方向性を定めて進む事。「歩む」は「止」「少」の何れもが足の象形で、一足ずつ、時折、佇みながら、ゆっくりと、一歩一歩進む事。「走」は、「十(分岐点)+疋(足の象形)=端る」で、何らかの目的地に向かってまっしぐらに進む事を表す。


  1. 2018/02/26(月) 09:45:05|
  2. 5.漢字の用法
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇其戸数道里不可得略載

 南至投馬国水行二十日五萬餘戸~ 南至邪馬壹国水行十日陸行一月七萬餘戸~ 自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳

 上記は、其北岸狗邪韓国から南で至る投馬国水行二十日可五万余戸~、同様に、南で至る邪馬壹国水行十日陸行一月可七万余戸~。女王国を含めない北側の国々は、その戸数道里を略載できるが、道程の東西に拡がる余の傍国は遠く(道も)絶えた所もあり、戸数や道里を詳らかにでき得ず。

 投馬国への最長の日程水行20日の道里はないが、「南至~」の起点とした其北岸の狗邪韓国から南側へ末廬国と半島を隔てた西側迄の水行10日、そこからの水行10日は、九州北岸を西へ水行後、西北岸の縁を廻り、東南方面に下った所にあり、可五万余戸。
 一方、邪馬壹国へも狗邪韓国から末廬国迄の水行十日、そこから陸行一月と、可七万余戸として、日程と戸数を記載するが、狗邪韓国から投馬国中枢への道里、不彌國から女王の都する所への道里と、邪馬壹国連合に服属する、その余の傍国(奴国を除く)20国への道里と戸数も略載されない。

 邪馬壹国の七万余戸(総じて~になるべし)は女王に属す国々の総戸数で、投馬国連合の五万余戸(総じて~になるべし)と旧奴国連合「有二万余戸」を併せた数値と考える。また、道程の對海国(千餘戸)、末廬国(四千餘戸)、伊都国(千餘戸)と、一大国(三千家)と不彌國(千余家)も、何れかの連合国に含まれるため、「其餘旁國」になる。ただ、一大国と不彌國の「家」は家門を持つ大夫(官僚)と、下戸(戸=門のない)の違いであれば、含まないかも知れない。

 一女子爲王名曰卑彌呼~以婢千人 自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入 居處宮室樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞。

 以て婢千人は城柵内に住み、その雑事や田畑の祭事等に従事したとすれば、女王国中枢の戸数に含まれるが、常有人持兵守衞は派遣されたと考える。

 
次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有爲吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國  次有奴國 此女王境界所盡。其南有狗奴國男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國、萬二千餘里~。

  (末廬国から東へ)次有り斯馬国、次有り已百支国、次有り伊邪国、次有り都支国、次有り好古都国、次有り不呼国、(折り返し)次有り姐奴国、次有り對蘇国、次有り姐奴国、次有り呼邑国、次有り華奴姐奴国、(奴国中枢を挟み西南へ)次有り鬼国、次有り為吾国、次有り鬼奴l国、次有り邪馬国、(沿岸部を北上して)次有り躬臣国、次有り巴利国、(沿岸部から東へ)次有り支惟国、(ここから東南部へ)次有り烏奴国、次有り奴国、これ女王の境界の尽きる所。その南に有る狗奴国は男子を王に為す。その官狗古智卑狗。これ女王に属さない。郡より至る女王国迄、萬二千餘里。

 「其餘旁国」は邪馬壹国への道程で道里と戸数を略載された自女王国以北に在る国々の東西に拡がる。旁国の奴国と道程の奴国は同国で、帶方郡東南に住んだ倭人の領域南側に属す邪馬壹国連合最南端で、女王に属す国境界の尽きる所に道里と戸数を略載された奴国の中枢がある。その東側に女王の都する所=邪馬壹国連合中枢の女王国、西側に投馬国連合の中枢がある。
 また、連合国の領域の最南端、奴国の南側に倭人の一国、女王に属さない狗奴国(連合?)があり、郡衙より、女王国に至る迄の里程、一万二千餘里の内訳は狗邪韓国迄の七千餘里(水行25~30日)、末廬国迄の三千餘里=最長水行十日、末盧国から二千里=最長陸行一月になる。

戸数と道里=例えば、道里に記載される戸数の場合、有~余戸、或いは、有~余家とあるが。日程として記載された投馬国は「可五万余戸」、邪馬壹国も可七万余戸とされる。こうした記述方の違いを無視する研究者は多い。「可(べし)」=良い事。良しとして許し、認める事。できる。*可能・許可
 漢和大辞典「可」の解字には、「屈曲した鈎形+口」とあり、様々な曲折を経て、どうにかそれと認められるとする。「字統」に拠ると、口と木の柯の象。祝詞を入れた器「口」、神に祝詞を捧げて、斧柯や柯枝を以て呵責を加え、祈りの成就を迫る。「呵」の初文とあり、神意がこれを聞く事とある。

伊都国=世有王皆統屬女王國。郡使往來常所駐。郡使が往来、常に駐まる所とされる理由は、ここが奴国中枢と邪馬壹国中枢の女王国へ向かう為の分岐点だからと考えられる。また、(女王卑弥呼の)世、有王は、女王卑弥呼係累の姻戚(統属)で、その王は、「有男弟佐治國(佐けて国を治める男弟)」と考える。
 大夫の国と思しき伊都国「有千餘戸」が「~家」とされない理由は、河川航行の荷役や宿場に従事する下戸が住み、不彌國の有千余家に官僚や神祇官が居たからだろうか。当然の事ながら、一大率の役所が在り、その官卑狗や副官卑奴母離直属と同等の官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚官等が常駐していた。

一大国(三千家)=自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國。於國中有如刺史とある=女王国より以北、一大率を特置、諸国を検察、諸国は恐れ憚る。(郡使が往来するので)これ伊都国を常治す。我が国中に於て有る刺史の如き。とある。おそらく、その武官(大夫)と家族等が住むと考える。
 「三千家」=「~餘戸」は、その数値を上回るが、大体、その数値。三千許家の「~許」は、満たないが、略、その数値。また、「可~」は、総じて~になるべしと考えられる。
 許[hıag][hıo][hiu]=上下に幅を空けて通す。まあ、これなら良かろうと聞き入れる。可能である。その資格があると認める。下(もと)、所、許り=数詞や指示詞に付けて上下に幅のある事を認める。

大夫=男子、無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫=男子、大小はなく、黥面文身。古来より、その使い中国に詣で、皆自ら大夫と称す。

邪馬壹国連合の最南端=「後漢書」倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也。倭国の極南界とされる倭奴国と狗奴国の関係はないのだろうか。尚、倭人の領域東側は、女王國東渡海千餘里復国有皆倭種とされた領域になる。


  1. 2018/02/19(月) 10:03:52|
  2. 5.漢字の用法
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇歴韓国

 帶方郡から倭に至る。朝鮮半島西岸部に循い水行、韓国西岸部を歴て、南下した後、東行すると到る倭の北岸狗邪韓国、ここ迄、七千餘里とあり、編者陳寿が、倭の北岸とした理由は、郡衙に居る郡使や魏使から見た狗邪韓国が朝鮮半島南岸部ではなく、東南部の離島、巨済島等を含む小さな群島に在ったからと考える。詰まり、帯方郡衙の東南、大海中に住むとされた倭人中、東側を除いた南側に属す邪馬壹国連合の構成国、對海(對馬)国への外洋航海を始める経由地(起点)として示唆する意味をも担う倭の北岸狗邪韓国は、朝鮮半島沿岸の航海を担った蛋民の基地と思しき弁辰狗邪や弁辰瀆盧国等の諸国と対峙して海道を挟んだ島嶼に在る倭人系渡海民の国域(領海)だったと考える。
 但し、官や副官、家・戸数等の記載が無いので、女王国に服属した對海(對馬)国から大官卑狗や副官卑奴母離が外洋航海を担う倭人系海民を伴い狗邪韓国へ出向き、郡使や魏使等を迎えるための前進基地的なものだったと考える。
述べてきた事と考え併せて、補足的な文言を「桃色」として付会、「至」に関連する経過や経緯を鑑み、これを意訳すると下記の如くなる。

 帯方郡から東南方面の大海中に住む倭に至る。朝鮮半島の沿岸部に循じて水行し、彼方此方に碇泊しながら帶方郡治下の韓国沿岸部を歴て南下した後、半島の西南隅から東して、その韓国に属さない倭人の北岸、外洋船に乗り換えるための目的地郡衙の東南大海中に住む倭人中、南側の邪馬壹国連合に属す海民の前身基地、狗邪韓国に到る。此処迄の総距離七千余里。

 例えば、古田武彦氏なりの思惑や意図に拠り、郡衙から狗邪韓国迄の七千餘里と云う里程と、韓国の方可四千里との帳尻を合わせるため、循海岸水行、歴韓国南乍東乍~云々。の「歴」と云う漢字を、魏皇帝の威厳を示すため、山勝ちな韓国領内を西北から東南方面へ陸上を転々と進んでいったとするが、当時の韓国領内が郡治下だったとしても、独立を目指す国人等の襲撃を受ける可能性が無かったとは言い切れないと思う。
 何れにしても半島南岸の東南隅に到る事に違いはないのだが、縦しんば、そうした進行経路だったとすれば、韓国を歴て「上陸」、或いは「陸行」と云う文言があってしかるべきで、日毎に移って行く「暦」と同源の「歴」=転々と移動するとすれば、この「歴」は循海岸水行に対応するとせざるを得ない。
 
 「狗邪韓国」は、帯方郡治下の韓国沿岸航海民の水先案内で、最初の目的地、邪馬壹国連合への南に向かう船に乗り換えて外洋を渡海する倭人の領域=帯方郡治の韓国領域外、倭人の領海に着いた事を示唆するために「到」にされた。また、この七千余里の里程や日程は帯方郡使には既知の情報で、編者陳寿も予め知り得たが、倭人の領域北岸狗邪韓国以降の状況は、倭人の説明に拠る郡使や魏使の報告に頼らざるを得なかったと考える。

 
狗邪韓国=陸鰐(くぬがわに)は、弁辰狗邪(べんしんくぬが)も朝鮮半島東南岸隅部に船を係留して山手の陸(クヌガ)に住む海民や東千餘里倭種との関連が考えられる。
 また韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓者古之辰國也。馬韓在西、其民土著、種植、知蠶桑、作綿布。各有長帥、大者自名爲臣智。其次爲邑借散在山海間無城郭と云う記述からすれば、馬韓人以外の辰韓や弁辰には一定の土地に定着し農耕や養蚕に従事する人々だけではなく、リアス式海岸の入り江等に家船を係留した蛋民(漁労民)、山間の谷にゲル(天幕)を張り、移動生活する遊牧民や帶方郡に服属する沿岸航海に従事する海民も混在したと考えられる。

前進基地=狗邪韓国には、領域や戸数等の記載が見えないので、出城的な船津があった。一大国にあったとした一大率の役所との役人や武人が、倭人系海民の船に乗り、交替で出向いたと考える。

歴=同訓で同義とされる「経る」は経由・経過等に使われる様に、直線的な連繋や因果を示唆する。一方、「歴る」は履歴・歴史・歴訪等、点々と繋いで行く事を示唆する。*「降る」=上から下に、「触る」=手等を伸ばして付ける、「振る」=手等を左右に動かす、「古い」=時を経る。


  1. 2018/02/12(月) 09:45:07|
  2. 5.漢字の用法
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
前のページ 次のページ